【お坊さんが解説する仏教用語】本地垂迹

【お坊さんが解説する仏教用語】本地垂迹

今日は本地垂迹について少しだけ書かせて頂きます。

時代劇って最近テレビで見なくなりましたが、観ていた世代が読んでくれていると期待して書き出します。

黄門様の越後の「ちりめんどん屋」も暴れん坊将軍の「遊び人の金さん」も本当の姿を隠して民衆の目線で話を聞き問題を解決する時代劇として人気が高かった番組です。

 

本当の姿=本地

仮の姿=垂迹です。

 

仏教では「本来の境地と、後から現れた姿。」と表現する事もあります。

中には日本独自に発生した本地垂迹もあるのです。

 

それは仏と神!

 

神仏習合の思想が発達して平安の中期より伝えられたと考えられています。

神は仏の権(か)りの姿であると考えられてきました。

あくまで仏教側の解釈であり異論はあるかと思いますが一例としてご理解下さい。

 

有名どころでは八幡大権現、熊野権現などは一度は聞いた事がある名称ではないでしょうか?

 

権現=権化です。

 

仏や菩薩が衆生を救済する為に姿を変えてこの世にあらわれる事を権化と言います。

時には仏や菩薩に対してだけではなく人にも使われる事があったようです。

例えば藤原道長などは聖徳太子や空海の生まれかわりで「権者」といわれました。

 

仏教が浸透していくにしたがって神との関係性を説くのには便利だっのかもしれません。

皆様もよくご存知のお地蔵さんにも垂迹(仮の姿)があります。

それは閻魔大王です。

 

 

あの怖い顔つきで罪人を裁く閻魔大王と優しい顔つきで人々に安心をもたらすお地蔵様は本地垂迹であるとの考えもあるのです。

 

仏教を分かりやすく伝えやすく広まりやすくする為に本地と垂迹が発生した様に思えます。

しかし冒頭の黄門様や暴れん坊将軍もそうですが本地と垂迹があるのは他者の為です。

自分の為に偽りの姿を作る(見せる)事とは違います。

 

 

衆生救済や他の宗教と対立しないように生まれた優しい考え方としてとらえていただければ嬉しい限りです。

 

私達は弱い存在なのでどうしても自分自身を貫く事が出来ない場面にも遭遇します。

出来ない事がダメな訳ではありません。

でも本当の自分の姿を自分に対して偽る事は誰にも出来ないのが人です。

偽る事で苦しくなる事もあるでしょうし、その場では大丈夫でも後々苦しさが出てくる事もあります。

もし偽りの姿で人と接する事があっても、心から他者を思う優しさがあれば本来の自分の姿ではなくても自分自身受け入れられる。

だからこそ水戸黄門や暴れん坊将軍が人気番組だったのではないでしょうか。

本地と垂迹。

皆様の人生において考え方の参考になれば幸いです。