ある瞑想合宿における体験記
坊主道の松永 です。
先日、ある瞑想体験合宿に参加しました。
上座部仏教(テーラワーダ)の僧侶から直接指導を受けることができる貴重な体験となり、私自身色々な気づきを得ることができました。
そこで行った瞑想は、歩く瞑想と座る瞑想でした。
瞑想と聞くと一般的には坐禅のように座って深呼吸をするというイメージですが、上座部の瞑想法には様々な瞑想法があります。立つ瞑想、歩く瞑想、寝る瞑想、手を動かす瞑想、食べる瞑想などなど。
日本の伝統仏教の中にも実は、経行(きんひん)のように歩く瞑想も存在しますが、一般的にあまり認識されていないように感じます。
歩く瞑想は、歩きながら足の感覚に自分の意識を向けます。自分の足の裏に床が触れる感覚、離れる感覚、床の温かさや冷たさ、風があたる感覚、関節が動く感覚や筋肉に力が入っている感覚など。
そして、「歩く」という一つの行為を分割していきます。一歩踏みだすということを細分化して、足を持ち上げる、前に出す、おろす、と言ったように行動を細かく分けてその中で細かい感覚を感じています。瞑想の段階が上がっていくと、分割するポイントをより細かく分けていきます。
座る瞑想は、座って呼吸をします。最初は呼吸をしている感覚に意識を向けていきます。鼻から空気が入り喉を通って肺に入っていく感覚。そして空気が出ていく感覚を感じます。念処経の解釈によると、呼吸をしたときに鼻の穴の頭から肺に至るまで、七箇所で空気の流れを感じることができると言います。(出典不詳)
段階が上がっていくと、自分が座っている身体感覚に意識を向けたり、五感から感じるものを思考に展開せず、そのまま受け止めていきます。
瞑想は大きく、サマタ瞑想ヴィパッサナー瞑想に二分されますが、歩く瞑想がサマタ瞑想、座る瞑想がヴィパッサナー瞑想(段階によってサマタの場合もある)に基本分類されます。
サマタとは、集中の瞑想であり、準備段階の瞑想とも言えます。一つの対象に意識を集中させ、心を一つの対象にむすびつけていきます。心を落ち着かせ集中をしていく瞑想で、中国から日本に伝わった仏教では、「止」と訳されます。
もう一つの瞑想であるヴィパッサナー瞑想は、観察の瞑想であり、智慧を誘発させる瞑想です。物事をありのままに観察するこの瞑想は、中国から伝わった仏教では、その名の通り、「観」と訳されます。
水面が風で揺れ波立っている状態では、水面に映る月を見ようと思っても月は歪んで映りハッキリと見えません。
水面が波風立たずピタッと止まり穏やかな状態となれば月は綺麗に映りありのままを見る事ができます。
水面を波風が立たず、穏やかにしていくのが止の瞑想。そこに映る月を見ていくのが観の瞑想であると言えます。
初期仏教においては止と観は明確に区別されておらず、のちの時代に止観と分けて体系化されていきました。
初期の段階では、お釈迦さまは「つねに意識していなさい。虚妄分別はなくなる」と弟子たちに伝えていたようです。虚妄分別とは、私たちが物事を認識するときに、過去の経験など自我がフィルターとなって、目の前の現象に判断を下してしまうことです。良い悪い、心地よい心地悪い、期待、不安、過去の成功への執着、後悔など色々なことを思考として展開してしまいます。目の前の出来事を受けて、その現実、現象から離れて思考や感情が一人歩きをし必要のない妄想をしてしまい、結果として苦しみへと繋がってしまうのが、この虚妄分別というものです。私たちの苦しみは私たちの心が作り出していると見るのが仏教の考え方です。いわゆる「今に気づく」トレーニングが私たちを苦しみから解放してくれるのです。
瞑想合宿中は「sati=注意を振り向けて十分に理解(把握)すること」を基本意識として、常に状態を保つように指導されます。
一瞬一瞬目の前の事に意識を向け、虚妄分別が起きないようにトレーニングをしていきます。
何日か経つと不思議なもので、細かく物事を細分化したり、その感覚に意識を持っていくことにだいぶ慣れてきます。
また物事を分割して把握していくので、日常の生活よりも行動がかなりゆっくりになります。
せっかちな性格ではない私でさえも、最初のうちはゆっくり行動することに多少の苛立ちを感じることもありましたが、
そのゆっくりな流れにも徐々に慣れていきました。
またふとした瞬間に、頭で何かを考えているのではなく、自分の呼吸を観察している、という感じにもなっていく実感もありました。
最後に合宿であった一コマを紹介したいと思います。
合宿期間にある時、昼食にシソが出ました。
実は私はシソがあまり得意ではありませんでした。
いつもであれば、端にそっとよけておくか、他のものと混ぜて、味を紛らせて丸呑みしてしまうところです。
しかし、せっかくの機会なので、シソをよく咀嚼して一体何が苦手なのかを観察してみることにしました。
もしかしたら、「シソが苦手だ」という自己の認識が先行しているだけであって、味自体が苦手なわけじゃないのではないか。
そう考えました。
ひとかみひとかみ、丁寧に咀嚼するたびに、口の中にシソの香りが広がりました。
・・・・・・・。
・・・・・・・。
・・・・・・・。
・・・・・・・。
やっぱり苦手な味だと再確認することとなりました。
現代を生きる私たちは激流のように流れが早く、濁流のように情報で汚染された忙しい時代を生きています。
普段の生活の中では、身の回りに溢れる情報に次から次へと忙しく意識を奪われ、次々に起きる出来事に感情を揺さぶられ、ごちゃ混ぜにしなった感情フィルターで世の中を判断してしまい、そして本質を理解しないまま、次の瞬間には別のものへ意識が移ってしまうのです。
私たちは日頃、目の前の現実や自分の心を目にしながらも、しっかりと向き合わないままに、苦しみの連鎖を自らの心で作り出してしまっているのです。
瞑想は、そんな私たちの心を苦しみから救うために伝えられてきたものであり、今の世の中だからこそ見直さなければならないように思います。
新幹線と各駅停車の景色がまるで違うように、同じものを見ながらも見えてくるものが変わってくる、それが瞑想のもつ力であり、その視点の変化こそが仏教の説くところの智慧に繋がっていくのではないかと感じました。