やたら気が強い祖母の話 – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.13 –

やたら気が強い祖母の話 – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.13 –

先日、生まれて初めて「喪主」になった。
通夜葬儀の現場では、これまで専らに式を執り行う立場だが、逆の立場になってみると気づくことも色々とあった。

でも、今回書きたいのは、そんな私の薄っぺらい気づきではなく、亡くなった祖母の話だ。

祖母は、昭和9年に南アルプス市の上宮地という場所で生まれた。7人兄弟の一番上だった。家は農家を営んでおり、ある程度成長すると働き手として畑へ出たり、弟や妹たちの世話をしたりしていたそうだ。兄妹も多く他の家に比べると貧しかったと話してくれることがあった。その時に必ず一緒に話すエピソードが「お祭りの時のお小遣いが友達よりも少なかった」ということだった。切ない話である。
子ども時代から青春時代を戦中戦後の最中に過ごしていた。甲府空襲の日には甲府の空が赤く燃えているようだったという話も聞かせてくれた。

貧しい農家の長女の祖母は、勉強が好きだった。しかし、親は「勉強なんかしないで、手伝いをしろ」と言っていたそう。祖母は怒られないように、押し入れの中に隠れて勉強をしたと言っていた。祖母は、めちゃくちゃに気が強く負けん気な人だったのだ。
同窓会に行ったら男子に「昔、〇〇ちゃん(祖母)によく泣かされた」と言われて、とても嫌だったとボヤいていた。

勉強をした成果か地元の高校に進学し、そこから山梨大学に進学した。勉強もそうだが、親の説得など、当時の社会状況を含めて考えると相当頑張ったのだと思う。朝ドラの「虎に翼」を見ていると、なんとなく祖母の若い頃の姿を想像してしまう。

そんな祖母が僕ら孫によく言っていたのは「同じ人間だから頑張ればできる」「何クソと思って頑張れ」という言葉だった。頑張って道を切り開いてきた祖母が自分の人生を通して得たまさに「人生訓」だったのだろう。

大学卒業後には、教師になり50歳過ぎまで勤めた。ここまで書いてきて言うまでもないのだが、とても怖い先生だったそうだ。

退職した祖母は、車の免許を取りに教習所へ通った。10ほど歳が離れていた祖父が病のためにだんだんと運転するのが難しくなってきたからだった。50過ぎて免許をとるのはかなり大変だったらしい。運転実技は20回くらい追加して合格したらしい。何回落とされても、めげずに頑張ったのだった。さすがとしか言いようがない。

両親が共働きだった僕ら兄妹は、学校から帰ってくると祖母がいつも迎えてくれた。晩飯も平日は祖母のご飯を食べていた。学校のトイレで大き方ができない小学生だった僕が、帰り道でやらかしてしまったお尻を嫌な顔一つせず風呂場で洗ってくれた。本堂の裏で弟と火遊びをしているのが、見つかった時にはこの世の終わりかと思うくらい怒られた。仕方ない。本堂燃えたらマジやばいもの。

祖父の病気が進行し、介護が必要になっても、介護対する弱音などは一切聞いたことがなかった。その姿を見て、誰でもそんな風に家族の介護をできるものだと思っていたけれど、後に介護を仕事にするようになって、そんなことは全くなくて、ただただ祖母の強さ故であったことに気がついた。

祖父の介護しながらもよく夫婦喧嘩をしていた。僕ら孫が居間でテレビを見ていると、祖父と喧嘩してプロレスラーのように両手を頭の上で掴み合って力くらべをしていることもあった。テレビ以外であんなふうに力くらべをしている人たちを僕は他に見たことはない。思い出すとただただ笑える。

そんな祖母も歳を重ねて、自らも重い病にあうが、90歳を間近に控えた状況にも関わらず「治るかもしれないのなら治療にチャレンジする」と言い何年間かツラい治療に取り組んだ。薬の副作用でだいぶ力が落ちら祖母の介護らしいこともちょっとはした。昔お尻を洗ってもらった恩返しだ。年齢もあり今年の4月に亡くなった。よく頑張った。命日は、晩年一番世話になったと言っても過言ではない、僕の妻の誕生日だ。まあ、空気を読まずに言いたいことを言い、やりたいことをやり抜いた祖母らしい、空気を読まない命日だった。

最後の半年は、叔母の家に移り住んでいたので、なんだか今でも叔母の家に行けばいそうな気がしてしまう。

1人の人間が死んでしまうということは大変なことなのだ。

最近、日本では毎年150万人ほども亡くなっている。毎年、1人の死が150万回もあるのだ。その150万の大半の、死とそれに伴う別離に僕たち僧侶は立ち会っている。

「同じ人間だから努力すればできる」

という祖母の言葉が、なんだか仏教の教えのように聞こえてくる。
ばあさんの孫の割に努力めちゃくちゃ苦手だけど、やらなきゃならないな。

もうすぐ新盆がやってくる。