法難ってなに?

法難ってなに?

ソーシャルテンプルの富澤是孝です。

 

日本の仏教には、たくさんの宗派があります。

今回は、日蓮宗の開祖、日蓮聖人が受けた法難について少し触れたいと思います。

 

法難とは、仏法を広めようとしたために迫害をうけることです。

日蓮聖人はいろいろな法難を受けましたが、その中で大きな法難が四つあります。

 

松葉ヶ谷法難(文応元年・1260年)

伊豆法難(弘長元年・1261年)

小松原法難(文永元年・1264年)

龍口法難(文永八年・1271年)

この四つの法難を四大法難といいます。

 

今回は龍口法難をクローズアップします。

鎌倉時代は、国内の内乱や蒙古襲来、鎌倉大地震、天変地異、飢餓に疫病が蔓延していた状況にあり、

日蓮聖人は、苦しい状況をよくしたいという気持ちで「立正安国論」を著し鎌倉幕府に提出し、法華経の思想に基づく日本の安寧と民衆の救済を提案しました。

幕府はこれを政策への中傷と受け止め「貞永式目」の「悪口の咎」に当たると解釈し、

文永8年(1271)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵で説法中の日蓮聖人は幕府に捕らえられ、

市中引回しの上、この龍ノ口の刑場に連行されました。

当時は龍ノ口は罪人を斬首する刑場でした。

ところが日蓮聖人の場合、幕府による裁判を経ずに刑場に連行したため幕府からも異議が出されました。

夜中にもかわらず裁判が開かれ、処刑中止を求める意見が多く、

幕府は夜半にいたり龍ノ口の刑場へ処刑中止の使者を送りました。

その間にも刑場では裁判の決定を待っていましたが、13日の子丑の刻(午前2時前後)に、

日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備をしました。

 

この時、日蓮聖人は「法華経の行者として法華経に命を捧げることは、むしろ喜びである」と、

泰然自若として御題目を唱え首の座につかれたといわれています。

ところがこの時

「江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たって首斬り役人は目がくらみ、畏れおののき倒れ」

(日蓮聖人のお手紙)という混乱の中に幕府の使者が到着し、斬首の刑は中止となりましたが、

この龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人以外には知られておらず、誠に尊い出来事と言えます。

 

その後、日蓮聖人は佐渡へ流されます。

その話はまたの次の機会に。

 

今はこの地に、日蓮宗の龍口寺というお寺があります。

目の前には江ノ島電鉄が通ってます。

近くには江ノ島もありますので観光のついでに寄ってみてはいかがでしょう。