正しく見ることの困難とそのままに生きる苦しみ  – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.15 –

正しく見ることの困難とそのままに生きる苦しみ – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.15 –

正しく考えて判断するための前提

八正道の一つ目に「正見(しょうけん)」が挙げられます。

八正道(はっしょうどう)
八つの支分からなる聖なる道の意.苦の滅に導く八つの正しい実践徳目.〈八聖道〉〈八支正道〉ともいう.1)正見(正しい見解),2)正思(正しい思惟),3)正語(正しい言葉),4)正業(正しい行い),5)正命(正しい生活),6)正精進(正しい努力),7)正念(正しい思念),8)正定(正しい精神統一)の八つをいう.釈迦の最初の説法において説かれたと伝えられる。   引用:『岩波仏教辞典』

8つ全てを眺めてみると、なぜ「正見」ということが、最初に挙げられているのかがなんとなくわかるような気がします。

何かを考えたり、その上で実践・行動すること、その土台になることは、まず対象を見るということ、それを通して認識するということから始まります。

どんなに論理的に、理性的に思考して、その結果を実践しても、そもそもの前提条件としての認識(スタートライン)が間違っていれば、結果は言わずもがなです。

 

正しく見ることができないのは…

正しく物事をみるというのが難しい要因は多岐にわたると思われます。

まず、個人の感情や経験に基づく主観的な偏りがあります。また、複雑で膨大な情報を完全に把握し、理解することができない個人の認知の限界も存在します。
周囲からの同調圧力や権威への過度な依存といった外的・社会的影響も、正しく見ることを妨げます。さらに、大きな認知の偏りとして、自分の信念や仮説に合う情報ばかりを集め、それに反する都合の悪い情報を無視してしまう傾向や、最初に得た情報や数値に引きずられ、その後の判断が大きく影響を受けてしまうことがあります。

これらに加えて、感情的な未熟さや、物事を深く考える時間の不足も影響します。そして、そもそもの情報不足も挙げられます。

 

情報過多による、正しく見ることの困難

昔は、情報があまりに少ないことで、正しく物事を判断ということがほとんどでした。その際たるものが、“病い”でしょう。正しく原因が分からずに、治療は経験則によるものに加えて、まじないや願掛けなどによって主に行われていました。原因が超人間的なことに求められたので、超人間的なことには、同じく超人間的なもので対応していたのでした。

現代に視線を移すと、今は情報が多すぎることによって、正しく見ることが難しい時代だと言えます。情報伝達のメインはテレビや新聞などの既存のマスメディアからネットへ移行し、SNSやYoutubeなどでは、今この瞬間も玉石混交の新しい情報コンテンツが生まれ続けています。アルゴリズムは過去の履歴から、“オススメ”を生成し、各々自分だけのスマホの画面には、好ましい情報ばかりが並び、ただただ流れていきます。認知の偏りの以前に、自らの受け取る情報の偏りが知らないうちに作られています。いわゆる、エコーチェンバーによって二重に偏りやすくなっているのです。

そして、善意か悪意かに関わらず、フェイクや切り取られた情報が並べられ、それらから真実を選び取るのは、途方もない情報リテラシーと、様々に別の角度から検証し考える膨大な時間が必要になります。情報源の信頼性云々と言っている場合でもなくなっています。もはや、”真実”も”正しさ”も信仰の対象になってきていると言えるのではないでしょうか(元々そうなのかもしれない)。

そして僕は途方に暮れる…

そして、僕自身は、物事を“正しく見る”こと、認識することに対して半ば絶望的な思いをしていると言っても過言ではありません。

自分自身の“正見”についても考えさせられますが、これから先、さらに混迷するであろう時代を生きるであろう、未来の子どもたちに、“正しく見る”ということをどう伝えていけるのか、自分が”正しく見たもの(見ることができないぽいが…w)”をどう伝えられるか、さらに混迷を極める小さな頭で考えている、今日この頃です。

それでも明日はやってくるし、毎日小さなことから大きなことまで決断しなけりゃならない。
お腹も空くし眠くもなる。

ぼんやりとしか見えない世界の中でも、間違えたり、やらかしたりしながら、みっともなくとも生きていかなきゃいけないのだなぁ。

ずいを