僕はどんどんと歳をとっていくワケで – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.16 –

僕はどんどんと歳をとっていくワケで – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.16 –

気づけば40代も半ばに差し掛かり、顔にはうっすら老化の証のシミなんかもではじめた(気になる)。
あれから(いつから?)随分と時間が経って見た目は年相応に変化をしているが、中身の方は大した変化もなく、眼を見張るような成長も成果もなく、正直自分にはがっかりすることが多いが、周りの人や環境には嘘みたいに恵まれている。

寺の住職をやっていると、いわゆる一人親方みたいな感じなので、檀家さんや同業者とは接する機会はあるが、日々誰とも会わずに一人仕事で1日を終えることがまあまあある。
上の世代の方々には「まだまだ若いんだから」と言われるが、体力は衰えているし、夜中に目が覚めると中々眠れないし、飲み過ぎた翌日のリカバリーはいまいちだ。

同世代では、比較的新しいものには敏感なつもりだけれど、新しいものをキャッチアップできないことが増えてきている。
特に音楽なんか、新しいものがどうもハマらず、というかそもそも新しいものに興味が持てず、故に大して調べもせず、いまだに20年前の音楽を漁り返して聴いて「痺れるぜー!」とか心の中で叫んでいる。誰かが言っていたけれど、新曲なんて自分には必要ないのかもしれない。

そんな様子なもんだから、こうやって文章を書いたり、喋ったりすることも定期的にしているけれど、作り出すものは最初から色褪せたような、そんなものになってやしないかビクビクしている。

それでも、歳をとって良かったと思うこともあるし、歳をとってやりやすくなったと思うこともある。そういった事に出くわすと、もっと早く年をとりたいと思うことさえある。

不思議と若さに対する嫉妬みたいなことは全くないのだが、未来に「時間」をどれだけ持っているかという事には、嫉妬することがある。
(人間いつどうなるかわからないだろう?坊さんなのにそんなことも分からないのか?というツッコミは無し)

昨年、父が亡くなったのだが68歳だった。祖父は70歳で亡くなった。二人とも60手前暗いから病気で身体が不自由になり、最後の数年間は寝たきり全介護の生活だった(父は胃瘻・人工呼吸器だった)。

なんとなく、自分が元気でバリバリ頑張れる時間を想像すると、あと干支が一周するくらいだと思っている。そう考えると時間は全然ない。笑ってしまうくらいに無い(笑)

一番やりたいことは何かと聞かれても、即答できるような答えがない。
寺のことや街のこと、仲間たちとのこと、家族のこと、色々と欲張ってやっていきたいことばかりで、でもどれも目指す先はハッキリと見えていなくて。
近しい人たちはわかっていると思うが、僕は目の前の面白そうなことと、どうしてもやらなきゃいけないことのこの2つしかほとんど取り組んでいないのだ。
時々、深い考えがあってやっていると思われてしまうこともあるけれど、全くないワケではないけど、色々やっていると色々なチャンスが巡ってきて、色々な面白いことが巡ってきてずっと先のことも考えたいけど、それよりも先に面白いことが目の前に現れてしまうのだ。

だから、先も短いがまだまだやり続けるしかないのだ、もう時間を味方に何かをやれるほどに残りは多くはないけれど、変な大人の、変な坊主の、悪い大人の、悪い坊主の手本でいたいのだ。

 

何が言いたいかというと、何も言いたくはないのだ。

 

たぶん、これでいいのだ