見えているものがすべてではない – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.18 –

見えているものがすべてではない – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.18 –

メダカのいる睡蓮鉢

最近の朝の楽しみなルーティンは、メダカに餌をあげることです。境内に置いてある睡蓮鉢や蓮の鉢に、メダカたちが元気に泳いでいます。今は三か所くらいに分けているので、それぞれの鉢に「ぱっぱっ」と餌をふりかけます。

今日は、そのあとじーっと鉢の中を眺めていました。

すると、メダカだけではなく、いろいろな生き物がいることに気づきます。タニシのものすごく小さいような貝。お腹がオレンジ色をした、蜘蛛のような、でも蜘蛛ではなさそうな生き物。水の中でうねうねと動く、よくわからないもの。
目を凝らしてみると、水草にもいろいろあります。

「あれ、こんなのも生えていたんだ」

そう思うような小さな植物があったり、藻のようで藻とも違うものがあったりします。
いわゆるビオトープとまでは言えないかもしれませんが、鉢の中には小さな生態系が存在しています。よく見れば見えるものもあれば、よく見ても自分の目では見えないものもある。そうしたものたちが、それぞれに働き合いながら、全体としてひとつの世界をつくっている。

鉢の中を眺めていて思ったのは、私は普段「ずいぶん粗い見方で世界を見ているのではないか」ということでした。

ぱっと見てわかるものだけを見て、わかったつもりになる。名前のついているもの、数字にできるもの、目立っているものだけを見て、それが全体だと思ってしまう。

でも実際には、その奥に、周囲に、見えていないたくさんの働きがあります。

数字にできるものが力を持つ

現代に生きていると、どうしても「見えるもの」に価値があるように思わされます。
もっと言えば、数字にできるもの。さらに言えば、お金になるもの。
再生回数、フォロワー数、売上、収入、資産額、肩書き、順位。そういうものが、あたかも人間の価値そのものであるかのように扱われるように見える様子が散見されます。
もちろん、数字がすべて悪いわけではありません。数字にすることで見えてくるものもあります。当然、お金も大事です。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、これは本当にその通りだと思います。食べるもの、寝る場所、着るものがなければ、人は落ち着いて物事を考えることも難しくなります。
仏教でも、修行は生活の土台を無視して成り立つものではありません。食べること、眠ること、身を保つことは、心を整えるための前提でもあります。だから、お金や生活の安定を軽んじるつもりはまったくありません。
ただ、問題はその先です。

必要を超えた余剰を持ったとき、人はそれをどう使うのか。

そこに、その人の徳というか、人格というか、あり方が表れるのではないかと思います。

その余剰は「自分ひとりの力」で得たものなのか

自分の身に余るほどのものを手にしたとき、それをどう扱うのか。
見せびらかすために使うのか。人を見下すために使うのか。自分の承認欲求を満たすためだけに使うのか。それとも、誰かの役に立つように使うのか。次の世代や地域や社会に、少しでも良い形で手渡そうとするのか。
そしてもうひとつ大事なのは、その余剰が本当に「自分ひとりの力」で手に入ったものなのか、ということです。

そんなわけはありません。

自分が努力した部分はもちろんあるでしょう。才覚もあるかもしれない。頑張ったこともあるでしょう。
けれど、それだけで成り立っているわけではありません。誰かの支えがあり。時代の流れがあり。運があった。与えられた場所と環境があった。たまたま自分に有利に働いた条件もあったはずです。

もっと言えば、自分が見えていないところで、誰かに負担をかけているかもしれない。知らないうちに、誰かの犠牲の上に立っている部分もあるかもしれない。

だからこそ、手元にあるものを「全部、自分の実力だ」と思い込むのは、とても危ういことだと思います。

画面に見える成功に振り回されない

若い人たちと話していると、同級生のSNSを見て落ち込む、という話を聞くことがあります。同じような環境にいたはずの人が、都会に出て、急にすごくお金を持っているように見える。派手な暮らしをしているように見える。成功しているように見える。
それを見て、

「自分は何をやっているんだろう」

と思ってしまう。気持ちはとてもよくわかります。画面の中に映るものは、どうしても良く見えます。見えない部分まで妄想してよく見てしまったりします。

それに比べると、地方にいる自分の今やっていることは、地味で、何の成果にもつながっていないように感じてしまう。でも、画面に映る華やかさは、本物であるかも疑わしく、ましてやその人の人生の全てではありません。

もちろん、本当に努力して成果を出している人もいます。若くして成功している人を、すべて疑えばいいという話ではありません。

ただ、画面に見えている一場面だけを、自分の人生全体と比べる必要はないのだと思います。そこに映っていないものがあります。積み重ねてきた時間。支えてくれた人。背負っている不安。見せていない失敗。あるいは、ただ華やかに見えるように切り取られた一瞬。小さなスマホの画面に見えているものは、いつも全体のごくごく一部です。

小さな鉢の中の、見えない働き

今朝、メダカの鉢を見ながら感じたことも、それに近いものでした。ぱっと見れば、そこにいるのはメダカです。でも、よく見ると、貝がいる。小さな虫がいる。水草がある。藻がある。水の中には、目に見えない微生物もいるでしょう。

それらが互いに関係し合って、支え合って、鉢の中の環境が保たれ、私の愛でる可愛いメダカたちが生きています。メダカだけを取り出して、「この鉢はメダカを飼っている鉢だ」と言うこともできます。でも、それは本当の意味では正確ではありません。

見えないものが、見えているものを支えています。

私たちの人生も、社会も、きっと同じです。

目立っている人だけで世界ができているわけではない。数字に表れるものだけで価値が決まるわけではない。お金になるものだけが力を持っているわけでもない。

人の善意。
誰かの忍耐。
地域うあ人とのつながり。
長い時間をかけて受け継がれてきた歴史・文化。
名前の残らない仕事。
見返りを求めない小さな行い。

そういうものは、数字には表れない。すぐには評価されない。SNSでも見ることができません。でも、それらがなければ、私たちの住む世界は全く違う姿をしているでしょう

見えないものを忘れずに生きる

今ここに見えている結果には、さまざまな因縁があります。直接見える原因だけでなく、無数の複雑な関係性の中で物事は成り立っています。

自分という存在もそうです。

自分ひとりで自分になったわけではありません。親がいて、家族がいて、地域があり、時代があり、出会いがあり、別れがあり、失敗があり、支えがありました。

そのことを知るのが、謙虚さであるのかもしれません。それは、自分を卑下することではありません。
「自分なんて大したことない」と縮こまることではなく、自分がたくさんの見えない働きに支えられていることを知る。だから、自分もまた誰かを支える側に回っていく。そういう前向きな心の働きです。

見えているものが、すべてではありません。

見えないものにも支えられて、私たちは生きています。忘れがちだけれど、忘れてはいけないことです。

明日の朝も、またメダカに餌をやりながら、鉢の中を少し覗いてみようと思います。

そこにはきっと、今日の私にはまだ見えていなかったものがあるはずです