坊主道の活動と「お寺のじかん」のメディア掲載のご報告と今後

坊主道の活動、「お寺のじかん」が全国的な新聞各社や情報誌に取り上げていただきました。

大変ありがたく身の引き締まる思いです。

発足から一年半、たくさんの方々のご支援、ご協力でこれまでの活動ができるに至りました。

今、私たちお坊さんに求められていることは何なのか?

お坊さんとしてできることは何なのか?

それらを考えながら活動していましたが、この度取り上げていただいたことで、このことをもう一度考える機会となりました。

取り上げていただいた各紙は以下のリンクからご覧いただけます。
この他にも信濃毎日新聞等で報じていただけたようです。
取材、掲載いただいた各紙の皆様、ありがとうございました。

SankeiBiz
産経フォト
日本経済新聞電子版
大分合同新聞

日本経済新聞全国版夕刊
新潟日報
産経新聞山梨版

日蓮宗宗報

月刊住職

YBSラジオ ラララモーニング

【坊主道が目指すもの】

今回の取材で記者の皆様に一様に聞かれたことは、今後「坊主道」は何を目指していくのか?

ということです。

発足当時、メンバーの中にはが多かれ少なかれ、この山梨の地にあり、寺院消滅時代に突入する現状を肌で感じ焦燥感を覚えながら日々を過ごしていたことと思います。

社会に私たちができることはなんなのか。

人口減少・子育て・格差・都市部一極集中・貧困・差別・高齢化・他国との関係・核家族・教育・ジェンダーetc….

社会課題を考えると枚挙にいとまがありません。

変化の流れのスピードは圧倒的で何もしないということはただ流れに身をまかせるだけで、目の前に起こる出来事を見ているだけ、自分のことではないと毎日を過ごすことになってしまいます。

社会が抱えている課題は私たちが社会を構成する一員であるならば皆一緒で自分事です。

仏教はその課題を解決することができるのではないか。

その問いを考えるにはもう1つ問いを立てる必要があります。

「お寺(寺院)とは何か?」

お堂がありお墓があって法事や葬儀を行う所。
悩みを聞いてくれて祈願ができる所。
宿泊施設がありお参りに行く際には泊まれる所。
国宝や文化財があり、お参りすることで心身をリフレッシュする所。
それ以外にもヨガやマルシェや寺フェスと言われるコンサートなど先進的な取り組みをしているお寺もたくさんあります。

そう、どれもお寺です。
正解も不正解もありません。

しかし共通することは建物があり、お参り(御本尊・ご先祖さま)でき、仏様の教えに触れることができること。

寺院の歴史はそこに修行者が集まり生活を共にすることから始まります。

本来の寺院は建物ありきだけではなく〝人〟が集まるから僧伽(そうぎゃ)・サンガと言っていました。

大辞林によりますと「僧伽」の意味は「 仏教修行者の集団。僧侶の集団。広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこともある。和合衆。和合僧。僧祇。」とあります。
※在家とはお坊さんではない人 (出家ー在家)

時代の流れとともに現在の形になっています。

では現代における僧伽やサンガとは何かを考えねばなりません。

私たち坊主道が考える僧伽・サンガとは何か。

それは問題意識を共有できる〝人〟が集まり、その課題解決に寄与すること。

またそれを自身の修行とする。

お坊さんであってもなくても〝人〟が集まり課題解決をするために、実践しそれを「修行」として〝させていただくこと〟、その人たちが集まることが寺院であり僧伽・サンガであると坊主道は考えます。

建物があるかないか、お墓があるかないかではなく、お坊さんであるかないかではなく、同じ方向性の人たちが〝仏道〟という道を求め、坊主道という器を使って活動をしていく。

仏になるために修行する〝場所〟

それが「チーム坊主道」であり私たちが目指す姿です。

一寺院では広範な課題設定と解決のためのアクションには限界があります。

既存のお寺を支えてくださる方々との関係や優先順位などを考えていくと向き合う時間もマンパワーも限られてくるのが現状です。

100あるうちの1でも10でも皆が持ち寄って、出来ることを探し実行していく。

【道を求める姿勢】

お釈迦様の教えの中にこんなお言葉があります。

「学識を豊かにして、教えを守り、高潔にして明敏(めいびん)な友と交わり、目的を定めて、疑いを持たず、犀(サイ)の角のように歩め」

「世俗(世間)のものごとによって、心が動揺することなく、憂なく、汚れを離れて、安穏であること、これがこよなき幸せである」

※ここでいう汚れとは私たち人間がなかなか捨てることのできない「執着」、「欲望」を指します。

また伝教大師最澄上人のお言葉に「忘己利他(もうこりた)」とあります。

己を忘れて他を利することは慈悲の極みなり。

そしてもう1つ、「自利とは利他をいふ」

これは利他は自利(喜び)であると言うことです。

曹洞宗の祖、道元禅師のお言葉に

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法(法=仏様の教え)に証せらるるなり。

万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

そう言うお前たちは何も出来てないではないかとのお叱りもあるかと思います。

また坊主道の活動は仏教ではないとのご指摘もあるやもしれません。

目立ちたいだけで〝我利我利〟(自分の利益だけを追求すること)なのではないか、というお言葉もいただくかもしれません。

 

そのお叱りもご指摘も真摯に受け止め、私たち「坊主道」はこれからも利他の精神で考え、私たちにもできることを探し、丁寧に活動していきたいと考えています。