ご利益寺を巡ろう! 甲府五山のひとつ「能成寺」に集まってきた歴史ある人物、もの、こと
甲府五山のひとつ、「能成寺」のさまざまな言い伝え
武田信玄は広く仏教を信仰し、宗派を問わず、寺院・僧侶を崇め敬ったと言われています。
禅法を尊び、臨済禅の関山派に深く帰依し、京都や鎌倉五山にならって、信玄の甲府五山を定めたのですが、
その一つが甲府盆地の東側に位置する「能成寺(のうじょうじ)」でした。
今から670年ほど前。貞和年間(1345-1350)に、中国・天目山で修行を積んだ業海本浄(ごっかいほんじょう)禅師が、天目山に似ている場所として、
大和村木賊に栖雲庵を結び悟後の修行を続けている折、時の国主であった武田信守公に呼び出され舘(現在の八代町北)に開山したのが能成寺です。
信守公は信玄公の父・信虎の曽祖父です。
信玄の時代には甲府城下(現在の甲府市宝)に移され、その後武田家滅亡を経て、文禄年間(1592年 – 1595年)に現在地へ移されたと伝えられている、武田信守供養塔がある格式の高いお寺です。
▲綺麗な本堂です
▲業海本浄禅師塔。ゆかりのあるお寺は大和村にある「栖雲寺(せいうんじ)」があります
▲武田信守供養塔。多くのお墓は富士山を望める場所に建っています
さて、今回の「ご利益めぐり」、どんなご利益があるのでしょうか。
ご住職の樋口さんに尋ねてみました。
その昔、ここには龍が棲んでいた
「ご利益とまでは言えませんが、昔この周辺には龍が棲んでいて、その龍が暴れて洪水を起こしていたそうです。それをお経で封じ込めたという伝説があります」
▲17世住職の樋口顕龍さん。龍が付く名前を代々受け継いでいるそう
かつてこの地一体が池だったことから、このような伝説が生まれたそうですが、当時は桜並木があり、屋形船も浮かんでいた、ちょっとした名所だったと言います。
その池「宿龍池」を偲び建てられた碑には、れっきとした龍伝説が刻まれているそうですので、もしかしたら本当に龍が存在していたのかもしれませんね。
▲龍の伝説を伝える「宿龍池」の碑
さまざまな石碑が点在する境内。一つひとつに大きな意味を持つ
能成寺を歩いていると目につくのが石碑です。
その中の一つには「富士山大息合結縁地蔵尊」が奉られています。
この地蔵尊は、もともと富士山の8合目の大息合(吉田ルートとの合流地点)に傷んで設置されていたそうですが、ある日僧侶の夢枕に立ち「直してほしい」と懇願したとか。
そして、能成寺に運ばれ3日間かけて修復し供養した後、あった場所に戻そうとすると、再び夢枕に立って「ここが気に入った。この場所から皆を救いたい」と言ったことから、富士山には戻さず、以来、能成寺から社会を見守っているそうです。
戦前、空襲で一部を破損してしまいましたが、今でも本堂で神々しく鎮座しています。
▲復元された富士山大息合結縁地蔵尊
▲復元前。大きく破損していることがわかりますね
赤穂浪士の生き証人?大野九郎兵衛が眠る場所
武田信守の供養塔があると前述しましたが、もう一つ、能成寺には偉大な人物のお墓があるそうです。
それは、赤穂浪士・大野九郎兵衛のお墓。
赤穂浪士は言うまでもありませんが、江戸時代に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が切腹に処せられた赤穂事件で、家臣の大石内蔵助が吉良邸に討ち入りした、有名な「忠臣蔵」で大石内蔵助に従った47人の浪士のこと。
しかし、大野九郎兵衛は47人とは別で金庫番をしていたと言われる人物だったそうです。
仇討ちを終え切腹した赤穂浪士でしたが、大野九郎兵衛は後世に武士道を伝えるため生き残り、余生を甲斐の国で過ごしたそうです。
お墓には辞世の句が刻まれていて、討ち入りを暗示するかのような内容だそうですよ。
▲裏に刻まれている辞世の句には、死という文字も刻まれています
さらに、参道には松尾芭蕉の句碑。
本堂へ向かう手前に虎嘯(こしょう)石と呼ばれる大きな石があります。
この虎嘯石、もともとは富士山の形のように置かれていたそう。
ある日、駿河(静岡)から人が来て「これは駿河にこそあるべき石なり」と強訴したので、時の住職が蹴とばし逆さにしたことから、虎のように見えるということで、そう呼ばれ始めたとか。
「虎がうなれば風が生ずる」、虎嘯にはこんな意味があるそうです。
▲芭蕉の「名月や 池を廻りて 夜もすがら」の句を刻んだ碑
▲虎に見える大きな石。以前は後ろに小さな石が2つあり、2頭の子虎のように見えたそうです
甲斐の国を守った「甲府勤番」たちの墓地
最後にもう一つ。能成寺が栄えてきたことを象徴する
「甲府勤番」のお墓がいくつもあります。
甲府勤番とは江戸幕府の役職のことで、江戸時代中期に設置され幕府直轄領化された甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った人たちのことです。
空襲で焼け出され再建された新たな「能成寺」
境内はとても綺麗で新しい雰囲気がします。
それもそのはず、嘉永4年(1851)と昭和20年(1945)の甲府大空襲で伽藍を焼失してしまい、昭和61年に現在の本堂を再建。平成3年に書院、平成9年に庫裡を再建したからです。
残念なことに昭和20年の空襲では、防空壕に保管されていたものまで焼けてしまったそう。
しかし先代のご住職が過去帳だけはなんとか守ったそうです。
そのような背景もあり「江戸時代以降のことしかわからないんですよ」と言う樋口さん自身も、17世でありますが定かではないそうです。
▲自然石を積み上げた「穴太(あのう)積み」といわれる石垣を目にします
数々の歴史を刻む石碑を前に、多くの人たちがこの能成寺に関わってきたのだと実感しながら、江戸時代より前の歴史が不明であるが故の歯がゆさと、きっと数奇な出来事を超え、今ここに能成寺はあるのだと感じました。
▲ゴミ一つ落ちていない能成寺
▲能成寺の御朱印は、悟りと宇宙の象徴「一円相(いちえんそう)」「円相図(えんそうず)」が描かれています
山梨県甲府市東光寺町2153
055-233-9396