坊主道が行く 沖縄戦戦没者供養

坊主道が行く 沖縄戦戦没者供養

【『坊主道が行く!』沖縄戦戦没者供養】

令和元年6月23日、沖縄県にある平和祈念公園にて沖縄戦全戦没者追悼式が行われました。

今から74年前、太平洋戦争の最中、沖縄において第32軍司令官、牛島満中将をはじめとする司令部が自決し組織的戦闘が終結した日とされている。

以来、6月23日は沖縄県民をはじめ日本国民には忘れられない日となる。

遡ること1年6ヶ月、坊主道メンバーの山田哲岳からある提案がありました。

「沖縄戦の戦没者供養を坊主道で出来ませんか?」

ここから今回の旅の計画が始まりました。

【昭和20年沖縄】


▲廃墟となった那覇市

まず、太平洋戦争と沖縄がどのように終戦を迎えるかを追っていきたいと思います。

昭和20年の沖縄で何があったのか、その極一部ですが知っていただきたいと思います。

日米開戦

昭和16年12月8日、日米は開戦しその戦火は大きく広がっていきます。

日本の教育システムの中で学んでいると近現代史は3学期に時間が無くなり、流す程度になってしまっているのが現状ではないでしょうか?

終戦から74年、戦争を知る語り部も少なくなってきた現在において私たちは主体的に学ばなければならないと痛感した今回の沖縄でした。

昭和20年の沖縄や日本はどのような状況だったのか。

少し紐解いていこうと思います。


▲昭和17年には日本の進出ライン 当時の日本領土はこんなにも大きかった

昭和19年サイパン、グアムで敗戦。

レイテ島の戦い、レイテ沖海戦で壊滅的な被害を受け戦局はどんどんと悪くなっていった。

一方、年が明け昭和20年2月4日に米・英・ソによるヤルタ会談が行われる。

このヤルタ会談では戦後のドイツの処理問題、第2次世界大戦戦後処理、国際連合の創設についてやソ連の対日参戦まで話し合われます。

この時の話し合いがきっかけで日露に領土問題があることは皆さんもご承知の通りです。

2月14日、近衛文麿が早期和平のための上奏文を昭和天皇に捧呈(ほうてい)する。

2月19日、米軍が硫黄島に上陸。

硫黄島の戦いでは10万人を超える兵力を誇る米軍を2万人の日本軍が迎え撃つ戦いとなり大激戦となった。

死者は日本軍約1万8千名、米軍約7千名と多大な死者を出した戦いであった。

米軍は本土空爆のために硫黄島は重要拠点であることから攻略を図る。

この後、本格的な本土空襲が始まることを考えると硫黄島を日本軍が死守しようと激戦を繰り広げたことも理解できる。

3月3日   マニラ占領

3月10日 東京大空襲

3月12日 名古屋大空襲

3月14日 大阪大空襲

3月16日 神戸空襲

3月18日〜九州沖航空戦

沖縄戦の経過

3月23日 沖縄本島への空襲開始(沖縄戦開始)

3月26日 米軍、慶良間列島(けらまれっとう)上陸 地上戦開始

4月1日    米軍、沖縄本島上陸

4月7日   南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方において撃沈

4月9日   宜野湾市、嘉数で激戦が始まる。

4月16日 米軍、伊江島上陸(21日占領)

5月4日   日本軍総攻撃開始ののち失敗

5月9日   日本軍司令部のある首里をめぐる攻防開始

5月27日 日本軍、首里司令部放棄(31日米軍占領)、日本軍糸満市摩文仁へ移動

6月10日 牛島軍司令官、米軍降伏勧告を拒否

6月13日 日本軍海軍部隊全滅

6月18日 米軍司令官、バックナー中将戦死

6月19日 日本軍の組織的抵抗がほぼ終了

6月23日 牛島軍司令官、糸満市摩文仁で自決(22日説あり)

そして終戦へ

7月16日  米国が原子爆弾実験に成功 マンハッタン計画完成(25日に使用許可)

7月26日 ドイツ、ポツダムにて英米ソ首脳会談 ポツダム宣言発表

8月6日   米軍、広島に原子爆弾投下

8月9日      米軍、長崎に原子爆弾投下
同日   御前会議にてポツダム宣言の受諾決定

8月14日 敗戦の詔 中立国にポツダム宣言受諾を通告

8月15日 玉音放送

8月16日 ソ連軍、南樺太へ侵攻開始(18日、千島列島占守島に侵攻)

8月28日   ソ連軍、択捉島占領(9月1日国後島・歯舞島、5日色丹島占領)

10月15日 本土日本軍武装解除

抜粋になりますがここまでが終戦までの経緯です。

【坊主道が行く 沖縄戦没者供養】

SOCIAL TEMPLE理事、寺GO飯実行委員長でもある山田哲岳からの提案で6月17日から19日までの3日間で沖縄に戦没者供養に行くことになりました。

参加メンバーは山田哲岳、浅野文俊、近藤玄純、渡辺類の4名。

予定していたメンバーもいましたが諸事情によりこのメンバーにて慰霊供養をさせていただくことになりました。

17日早朝の便で羽田空港を出発し沖縄に到着。

平和祈念公園に向かいました。

当日は天気も悪く大雨の中戦没者名簿を読み上げ供養をさせていただきました。


▲大勢の戦没者の方のお名前が都道府県別に刻まれた刻銘板を読み上げながら供養します。


▲追い詰められ大勢の人が飛び降りて死んでいった摩文仁の丘でもご供養させていただきました


▲国立沖縄戦没者墓苑


▲「平和の礎」前にて24万人とも言われる全戦没者供養を行いました


▲米軍の戦没者刻銘板


▲17日、18日の両日の供養も終わり資料館横でアート展が開催されていることを知り中へ


▲安里五二高地付近の戦闘という作品

▲こんな作品もありました


▲資料館の展示には子供達向けの展示も


▲6月23日の「沖縄慰霊の日」の準備途中でした

【他人事にも思える本土の人間の私】

2度目の平和祈念公園に訪れる機会でしたが、毎回痛感することは、これは遠い国の遠い昔に起こった出来事ではないということです。

沖縄県内の小学生かと思われますが、みんなで戦没者供養のために歌を歌っていました。

広島に訪れた時も感じたことですが、被災した地域では戦災教育がしっかりと行われているということです。

先人の尊い命の犠牲を忘れない。

そして恒久平和への願い。

甲府も大きい空襲があり、たくさんの方が命を落とされていますがここまでの教育は施されていない、他人事になってしまっているような気がしています。

古来、地政学的にも難しいかじ取りを求められ、琉球から沖縄になるまで翻弄されてきた歴史の中には、たくさんの苦しみがあったことは容易に想像できます。

米軍基地の問題、隣国中国の問題など、政治問題化している部分もあります。

沖縄の若い男性から少しお話を聞く時間があったのですが、その男性が「本土から見る沖縄と、本当の沖縄は違うんですよ」と言っていました。

普天間から辺野古へ移設される米軍基地の話も本土から見ると違うかもしれないとも言っていました。

善し悪しだけで判断することなく、バイアスをかけて見ることなく、まずは知ることから始めようと思った沖縄慰霊の旅でした。