第1回 SOCIAL TEMPLEってなんだろう?
【第1回 SOCIAL TEMPLEって何だろう?】
(社)SOCIAL TEMPLE代表理事、近藤玄純です。
〝建物なき寺院〟としてSOCIAL TEMPLEが発足してから丸一年が経ちました。
また坊主道も発足から丸3年を迎え4年目に突入しています。
皆様のご支援のおかげをもちまして、プロジェクトも順調に進んでいます。
メディアに取り上げられる機会も多くなり、たくさんの方にSOCIAL TEMPLEについて聞かれることが多くなりました。
(過去のメディア掲載についてはこちらから)
今まで取材を受けた媒体で記事などを読み、興味を持った方々にSOCIAL TEMPLEの詳細を聞かれます。
説明するとご納得いただけるのですが、裏を返すと既出媒体では伝わっていないということです。
私の説明不足だと反省しています。
これから皆様にもお分かりいただけるようにSOCIAL TEMPLEとは何か?
ということを何回かに分けてお話ししていこうと思います。
SOCIAL TEMPLEの説明をするには坊主道の発足経緯、私の住職就任まで遡らなければなりません。
しばしお付き合いをお願いします。
第1回 「坊主道」発足までの経緯 住職就任編
平成21年に山梨県中央市という読んだら分かる甲府盆地の小さなお寺、妙性寺の住職になった私はお寺の運営という壁にぶつかることになります。
今まで、日蓮宗総本山の身延山に所謂サラリーマンお坊さんで生計を立てていた私は退職と同時に専業坊主になることを決心しました。
檀家さんの数は70軒、とても生計が立つお寺ではありません。
しかもお堂はボロボロ。
この状況を知る周囲の方々は、皆一様に身延山を退職することを反対しました。
先代である父も身延山や周辺寺院に勤めてお寺を切り盛りしていましたので何の抵抗もなく勤めていましたが、人口減少などお寺業界を不安にさせる要素はたくさんありましたから、後ろ髪を引かれつつも退職を決意し専業坊主になることを決めました。
仏教系大学を中退し、ビリヤード場勤務を経てお坊さんになった私は平成21年に住職に就任した後に、お寺の体質改善に着手しました。
ホームページ作り、永代供養墓建立、墓地整備、お寺の規則見直し、役員人事見直し、経費削減などなど、やる事しかなかったお寺を立て直そうとしてきました。
運営改善も一周し、一息入れたところで平成23年3月11日が訪れることになります。
そう、東日本大震災です。
私の住む中央市でも震度5強の揺れが発生しました。
幸い中央市は大きな被害はありませんでしたが、東北の惨状を目の当たりにした私は焦燥感にかられ、2回目の日蓮宗大荒行堂へ犠牲になられた方々や被災地の復興をお祈りするために入行することにしました。
修行から帰ってきた私は、3回目の荒行堂への入行を志し準備を始めることになります。
大学を中退したため、お坊さんの位が入行資格に足りず単位を取得するために身延山大学で学ぶこととなりました。
そこで住職として現場を運営しながら改めて学びなおすことになった私は、今まであった疑問や胸につっかえていたものが現場にいたことで解決していく感覚になったのを鮮明に覚えています。
学べば学ぶほど自身の足りなさや不甲斐なさに気づき、入行するモチベーションを作り上げられず断念することにしました。
少し学んだ私は今度はお寺と自分自身の矛盾に気づいてしまいます。
それはお寺の運営と自分自身の信仰の二律背反です。
信仰ー運営
この問題は日本の多くのお寺やお坊さんがぶち当たっている問題です。
住職であることとお坊さんであること。
お金がなければ運営できない、運営しようとすると自身の修行が深められない。
この問題を解消すべく、「未来の住職塾」というお寺の経営塾へ通うことにしました。
【お寺の経営塾って?】
MBAホルダーである浄土真宗本願寺派、松本紹圭塾長が主宰する『未来の住職塾』というお坊さんの経営塾です。
世界最古の非営利法人は日本のお寺と、経営学の権威ピーター・ドラッカーが言うように、私たちは一つの法人を預かる経営者でもあります。
そこで全国から集まったお坊さんやお寺に関わる方々と学びを共にすることになりました。
▲未来の住職塾での卒業発表、「寺業計画書」発表の一コマ
隔月授業の間の月に勉強会を重ね卒業要件である「寺業計画書」を書き上げるために一年間を費やしました。
自分のお寺の事をこんなに真正面から向き合って考え続けたことは住職に就任してからも初めての事でした。
何とか「寺業計画書」を書き上げ無事卒業し、計画書に沿ってお寺の運営を始めています。
「寺業計画書」を書き上げるための学びと同様に、同じ様な問題意識を抱えた仲間との学びは私にとってかけがえのない時間となりました。
視点も視座も言語も共通。
全国各地にいる仲間の存在は大きな財産となっています。
と同時に思ったことは山梨に帰ってからも同様な視座を持つ仲間作りが出来ないかということでした。
「寺業計画書」を作り上げる段階で既に住職就任から8年を経過していた私は1人で事を起こしても効果は薄いということに気づいていました。
世間はお寺や僧侶への不信感は募るばかり、また「多死社会」を〝終末期産業〟と見立てた心無いビジネスプレイヤーの参入などあまりにも逆風が強すぎる。
山梨の小寺の住職1人で太刀打ちできる流れではないと未来の就職塾に通い始める前までは諦め、そして腐っていました。
塾で得た仲間の様に、同じ問題意識を持つ仲間を山梨で得ることができたら仏教界全体が良くなるのではないか。
この思いを「寺業計画書」にしたため、仲間集めを始めていくことになりました。
伝手という伝手を使い、食事に誘い他宗のお坊さんを口説き始めました。
普段から宗派の横断的交流はあまりないのが現状の中、排他的なイメージのある日蓮宗の坊さんからの誘いは戸惑いを生んだことと思います。
その後、数人の方々の同意を得て第1回の集まりを持つことができ、坊主道を発足する運びとなっていきます。
「坊主道」の名前の由来ですが、友人に相談した所「〝道〟っていいよね」となり、分不相応で大げさですがこれからの僧侶の道を考えていくグループとして坊主道と決めました。
そして2016年10月に発足の運びとなります。
しかしもう一つ私にはテーマがありました。
それは「未来の住職塾」の甲府クラス誘致でした。
2016年当時、山梨県での受講生、卒業生は私1人でした。
都道府県の寺院密度ランキングでも上位の山梨県に当時全国で卒業生が500人を越えようとしている「未来の住職塾」の卒業生がゼロ。
この現状を変えなければ山梨県の寺院はかなりの数消滅すると思っていた私は塾長である松本紹圭さんに相談し、何とか山梨で開催できないかとお願いしクラス開設を試みることになりました。
坊主道も「布教・運営・研究」の三本の活動方針で動き始めていましたので2016年12月に甲府で未来の住職塾塾長である松本紹圭さんをお招きし勉強会を開催しました。
副代表の渡辺光順が勤務するお寺、甲斐善光寺を会場としてお借りし、坊主道第1回目のイベントである勉強会を「これからのお寺作りセミナー」と題し県内外より20名を超えるお坊さんに集まっていただき、学びを深めました。
翌年2月には「未来の住職塾一日体験教室」を開催していただき、受講生も集まり開催ができる運びとなりました。
未来の住職塾甲府クラスの開催ができたのも塾長を始め関係者の皆様にご尽力いただいたおかげです。
この頃には周囲の方々に、「お寺の方を向いていない」、「お坊さんの方を向いて活動している」などたくさんのご助言をいただきました。
しかし私の中には「お寺」は残すものではなく〝残る〟ものであるとの思いがあることからこの道を進んでいく決意をしました。
▲未来の住職塾甲府クラスの様子
こうして坊主道は発足しメンバーも未来の住職塾で学びを深めていくことになります。
次回へ続く