釈尊に恋した絵描きの妄想ランチ

釈尊に恋した絵描きの妄想ランチ

《プロローグ》

私は、叶わぬ恋をした絵描きです。

釈尊に会いたかったと、思い焦がれる絵描きです。

もし、釈尊に会えたなら、毎週1回、長いランチタイムを一緒に過ごして、ほんの日常のたわいない話しをしながら、心の奥深くに隠している、誰にも話せない想いについて話すのです。

釈尊はニコニコ笑って何度も頷きながら私の話しを聞いて、コーヒーを一口飲むと、

「君はいつも忙しいね」

って低くて優しい声で言うと、私の手放せない想いのからくりを、ひとつひとつ解体して、頑になった私を楽にしてくれるのです。

 

日々起きることに心が追いつかなくて、自信喪失したり疑心暗鬼になってしまうと、こんな釈尊との妄想ランチを楽しみながら、彼が残してくれた言葉が綴られた古典経典を読み返します。

釈尊が私たちに残してくれた言葉は、2500年経った今でも性別や年齢や国籍や文化が違っていても、悲しみや苦しみや憎しみの中にいる人の心を深くえぐるように、その正体を暴いてくれます。

でも、その言葉はあまりに簡潔で当たり前すぎて、健康で幸せな人にはなかなか響かないことが多いように思います。

私も以前は日々の忙しさに追い立てられて、自身の心の浮き沈みに飲み込まれながら盲目に暮らしていました。

 

そして、ある日、立ち止まってしまったのです。

 

今まで築いてきた人間関係や、当たり前に動く身体を失った時に、それまで自分が頼りにしていた判断の基準を失ってしまったのです。

つまずく毎に、モヤモヤした気持ちが沸き上がってきて、そのモヤモヤはやがて黒い塊になりながら、私から健康も気力も自信も奪って成長していきました。

少しでも楽になりたくて藁をもつかむ思いで、心療内科やペインクリニックにも通い、セラピスト、占い、自己啓発本、講演会、パワースポット・・・・
片っ端から試しましたが、何一つとして、私の心を穏やかにしてくれるノウハウも、お腹の中で蠢く黒い塊の正体を知る手だてにもなりませんでした。

 

そんな時に、偶然にも釈尊の言葉を知ったのです。

もしかしたら私の心を穏やかにさせるヒントがあるかもしれないと思い、芋づる式に順に出てくる禅語や仏教用語などを調べていきました。

これが、私の作家活動へ搔き立てる原動力になっていったのです。

 

《私にとっての仏教・釈尊》

絵師の仕事を始めてから様々な仏教宗派について学びはじめていた私は、以前からとても疑問に思ってきたことがありました。

それは、仏教って何なのだろう?ということでした。

私も含めて皆さんの多くは、生家の所属する宗派の教えをほとんどご存知ないのではないでしょうか?

 

仏教について、手塚治虫先生の《ブッダ》ぐらいしか読んだことが無い私にとって、お仕事で様々な宗派のことを勉強するたびに、それぞれに大切とされる意味難解な経典の翻訳を知れば知るほど、仏教の大親分であるはずの釈尊の姿が薄れていってしまう感覚がしていました。

こうして釈尊という人間に興味を持つようになり、彼が実際に話した言葉に近づきたくて調べていくうちに古典経典にたどり着いたのです。

実際には古典経典も釈尊が記したものでは無いと知った時はがっかりしましたが、意味難解な経典の日本語訳を読むよりも、実際に生きていた釈尊という人がどんな人物だったか想像しながら読める古典経典は遥かに楽しいものでした。

 

そして、2500年前から人は同じことで苦しみ、悲しみ、助けを求めていたことを知って、救いを求める人の心には時も場所も文化も関係ないことに驚くと共に、幸せになるためにどうしたら良いのかを、目の前の悩める人に分かりやすい様々な言葉(方便)で説明してくれる釈尊の言葉に深く感銘を受けました。

 

貧しくても豊かでも、病気でも健康でも、若くても老いていても、盲目な者には悩みや苦しみは必ずついてまわるものであり、もし自分が盲目であることに気がついて、釈尊の教えてくれたことを気をつけ始めた瞬間から、目の前の世界が一瞬にして変わり、お腹の中の黒い塊を手放すことができることを知って、できるかぎり釈尊の言う通り『気をつけて』過ごそうと努めることにしました。

 

心をまもり、ことばをまもり、身体の動作につねに気をつけている人は、悩みに出会っても苦しまないであろう。

(ウダーナヴァルガ 第31章 心より)

《私が絵を描く理由》

この絵は『登竜門』というタイトルです。

身体に描かれている模様は和更紗の模様。
龍になりかけの魚が泳ぐ姿を、江戸後期に描かれた和更紗の柄に見つけて選びました。

 

登竜門とは中国にある川の上流にあたる地名だそうです。

鯉がこの川の瀧を登り切ると龍になるという伝説がある事から、その道のプロになるために挑戦するコンテストなどを「◯◯の登竜門」と言うようになりました。また、魚が悟りを得ると龍になるという説もあります。

人には「志」というものがありますが、志だと思っていた事が成長とともに変化していることに気づかず、見失ってしまう事があります。そもそも志が何なのか分からないまま時が過ぎてしまう事もあるかもしれません。

そんな時は何の為に生きているのか分からなくなって、生きている事に空しさを感じたりします。

30年も絵を描いていれば、描けなかった絵が描けるようになって何となく上手になった気持ちになります。
絵が上手くなってくると、今度は絵を描いてお金がもらえるようになりたいと思うようになります。

幸運なことに、私は絵を描いてお金をいただけるようになり、小さい頃に夢見た絵描きの仲間入りをする事ができました。

ところが、夢が叶ったにも関わらず、なぜか自分を認められなくて、どうすれば自分が絵描きになれたのだと認めてあげられるのか分からなくなってしまったのです。

 

そんな時に、釈尊は夢より先にあった「志」を私に教えてくれました。

その「志」とは、

心をまもり、ことばをまもり、身体の動作につねに気をつけて、穏やかに暮らせる私を育てること。
そして、同じように苦しむ世界中の人たちへ、その方法を伝えること・・・
というものです。

 

その「志」は登竜門の瀧のように高くそびえ立っていますが、私がこれまでに得た技術や経験全てが、この瀧を登る道具として使えると気がついた時に、生まれてからこれまでしてきたこと全てが、自分の死ぬ寸前まで真っ直ぐに繋がった気持ちになりました。

 

私は死ぬ寸前まで絵を描き続けようと思っています。

それは仕事ではなく、夢でもなく、私の残りの人生をかけて学び育て続ける「志」だと信じているのです。

 

ただ・・・
心を常に穏やかに整えることは、ジェットコースターのように揺れ動く心に振り回されてきた私にとってとても難しい課題です。
そして、それは最近はなんだかダイエットとよく似てるな・・・と思うようになりました。

「でもね、甘いもの食べたいの。もし食べるんやったら、できるだけカロリーの低いもの選んで口にするようにしなあかんやん?」

「そうだね。でも、食べても太らない体質にする方法もあるよ?」

「そうなの!だから毎日運動しなきゃって思うんやけどさ。でもなかなか続かへんの。ダメだな、って思いながらも甘いもの食べちゃって、そんな自分にがっかりしちゃうわけ。」

「そっかぁ。じゃあ、食べる時は喜んで食べたらいいと思う。食べた後にがっかりしたら食べた時の喜びが苦しみになっちゃうからね

「食べてもいいの?」

「そう。食べることを決断すればいい。食べるのも食べないのも、運動するのもしないのも、全て君の決断の蓄積が今の君の姿。
どんなに小さな事も決断して覚悟をする。それがダイエット成功への一歩だよ。」

でも、釈尊の言葉を知っていたって所詮凡人、言うは易し行うは難しです。

食べたら太ってしまうと分かっていてもパフェは食べてちゃうし、言わない方が良い一言をつい口走って後悔したりして、覚悟できない自分に嫌気がさしたりします。

そんな時は、釈尊との妄想ランチに出かけて、頑なになった私を見つめ直すのです。

これから不定期ですが、そんな妄想ランチをしながら、釈尊の言葉を伝えたくて描いた絵を、ひとつずつご紹介させていただきたいと思っております。

次のランチも同席していただけたら嬉しいです。