諸法無我(しょほうむが)ー自分というものはとても厄介で面倒くさい。
自分探しの旅
「自分探し」をしている方はいらっしゃいますか?
「自分とは何であるか?」「自分らしさってなんだろう?」「本当の自分って?」…のように”自分”や”私”という枠の中にアイデンティティを探すのは、皆さんよくあることだと思います。
そしてやっと見つけた、または確立したアイデンティティからブレないように必死にしがみついてる事もありますよね。
私も本当によくこの考えのループにはまる事があります。
ところで
自分のアイデンティティってそんなに大事なものでしょうか?
そこにどんな価値があるんでしょうか。
価値を感じているとしたら、それは誰が感じているのか。
私の場合、自分らしさを確立し、価値を感じているのは他ならぬ自分自身です。
そしてなんと…
自分探しのループにはまった時や、自分らしさへの執着が生まれてくるにつれて頭や心がものすごく固くなって、気持ちが悪くなります。
身体の感覚が「気持ち悪さ」として、気づかせてくれるんです。
頭が痛くなったり、肩がこったり、歯軋りをしていたり。
そんな身体のサインに気づいて
(あっ。やってしまったーーー。頑なに”自分らしさ”に執着してるじゃないかーーー)とハッとします。
その執着は必要なのかなあ…
自分らしさへの執着は、時にとても面倒で厄介なものかもしれません。
【ブッダの教え 諸法無我(しょほうむが)】
諸法無我というのは、いかなるものにも実体はないんだよ、というブッダの尊い教えのひとつです。
YOGAのレッスンの中でも、身体を使って同じことをお伝えしているのですが、
細胞ひとつをとっても、感覚ひとつをとっても、今この瞬間から離れたら、そこに実体はなくなる。
永遠にあるものとして勘違いしがちなこの身体でさえ、単なる一時的な状態に過ぎません。
「無我」とは、(確かにある)と感じやすい”自分”という存在さえ、実体はない、とします。
身体も心も、自分というもの、本当の自分なんてものは、ない。
そう考える自分自身にも実体はないんです。
仏教では、約2500年位も前から「無我」を説いています。
だとしたら、自分らしさへの執着で苦しむって、自分探しをするって、
ナンセンス。
水の中に水滴を探す、みたいに途方に暮れる作業でしょう。
【自分は変われるということに気づく】
私はこの「諸法無我」の教えによって、
自分を変えることにチャレンジをし続けています。
なかなか難しいことですが、まずは自我に執着していることに気づくことから。
気づいた瞬間、自分を変えるチャンスが訪れたと思って、無理しない程度にチャレンジします。
年齢を重ねれば重ねるほど、経験や煩悩が蓄積していくとともに
自我が確立していき、簡単に「自分をないもの」には出来なくなります。
きっと毎日が味わい深い修行なんです。
ブッダの背中を見ながら、
心地よい〝自分らしさ〟と〝自分なしさ〟(勝手に造語)を自分で選択していけたら良いんじゃないかと思います。