「お寺のじかん」を見てくださっている皆様へ

「お寺のじかん」を見てくださっている皆様へ

今年もまた3月11日がやってきました。

あれから9年。

あの時と同じような国難と言うべき出来事が起こっています。

東日本大震災から私たちは何を学び、何を今に活かせているのでしょうか。

新型コロナウイルス感染症の影響で皆様の生活にも影響があることと思います。

記録的な暖冬から3月へ入り暖かい日々も訪れていますが、この非常時の中で、私も何が正解で、何が不正解か分からなくなってしまっています。

ここで一度立ち止まって一緒に考えてみませんか?
新型コロナウィルスの影響でお亡くなりになられた皆様にお悔やみ申し上げます。

また罹患された皆様、苦しまれていらっしゃる皆様にお見舞い申し上げます。

【立ち止まるということ】

連日、新型コロナウィルスのことでテレビも新聞も一色に染まっているなかで3月11日を迎えました。

あの時と同じような現象が今目の前で起きています。

しかしあの時とは違う。

今置かれている状況をもう一度考えてみましょう。

 

一斉休校で子供たちの生活、私たちの生活にも大きく影響が出ています。

私たちSOCIAL TEMPLEもイベントを中止・延期とさせていただきました。

この中止・判断も私たちとしても議論に議論を重ねた判断となりましたが、他のイベント主催者の皆様も相当悩まれたことと思います。

メディアやネットの情報も錯綜し何を信じていいのかも分からなくなってしまっています。

未知なるものへの「不安」はどれだけ文明が進んでも付きまとうものなのでしょう。

2月の下旬から3月の1週目が終わり、まるで嵐が来て砂煙に巻き込まれているような状況だったのではないでしょうか。

お仕事の都合でお子様を日中預かってもらえるところを探している方もいらっしゃいますし、生徒や児童はイレギュラーな受験や卒業式を迎えることになり動揺している様子も見受けられます。

しかしある企業ではリモートワークを導入し「働く」ということを見直すきっかけとなり、ある家庭では「親子関係」を見直す時間にもなっているようです。

飲食店も業態によって売り上げが上がったところと下がったところがあるようですね。

また宿泊業界は大きなダメージを受け、ショッピングセンターの棚は商品が無く売り切れ続出です。

徐々にこの出来事の全貌が見えつつある中で、ある人は他者にこうあるべきだと主張し、ある人はこれに乗じて貪る。

ある人は立ち上がり、ある人は救済のために奔走する。

ある人は何をしていいか分からなく恐れ慄き、ある人は何かしたいけど状況がそれを許さず、それを見てある人はただただ罵り続ける。

【インターネットというものの功罪】

インターネットという文明の利器は私たちの生活を大きく変えてくれました。

全世界の何者でも発信できる基地を持ち、正誤も含めてネット社会の中には膨大な情報で溢れています。

誰も知りたくない他人の生活の中身まで知ることができます。

あの人は先週どこに旅行しただとか、何を食べた、何を買ったまで。

インターネット以前にもあった近所の耳よりな情報も、こうすればあなたの課題が解決するよ、なんてことも。

私のようにすれば年収1億超えは間違いないとか、あそこのご飯屋さんは美味しいよとか様々な情報で溢れかえっています。

皆様もご存知の通り1wayで情報を受け取っていた時代とは異なり、取捨選択が求められる上に自己責任も問われる社会になりました。

 

政府や行政の責任、学校の責任、親の責任、病院の責任、罹患した人の責任、咳をする人の責任。

誰かのせいにしないと生きていけなくなってしまったこの現代で、この私という存在は何をどう考え毎日を営むべきなのでしょうか。

イベントを開催する人には不謹慎と、何もしない人には何かするべきだと、何かした人には不謹慎だという感情的に反応してしまう私たち。

リスクの無い世界など存在しない世界の中で、私たちはどのように毎日を生きていくべきなのか。

濁流のように押し寄せてくる他者の発信した情報からどのように自分の身を守り、何を捨て何を得るのか。

日々私たちは自分の頭で考え、心に問い、選択し行動しなければなりません。

自己承認と他者糾弾はある意味では表裏一体です。

また他人の主張に無条件に乗ることも思考停止ということになるのではないでしょうか。

【正義という名の刃物】

インターネットの普及のおかげで変わったことというと、不正をしにくい世の中になったことも挙げられるのではないでしょうか。

だからと言って不正を是認している訳ではありません。

しかしインターネットが普及した現代ではミスを犯すと全てが終わる非常に厳しい時代でもあると思います。

ミスを反省して前に進もうとする人ですら不快だと言って切り捨てる。

とても感情的で怖い時代です。

悪いことは悪い。

悪いことをした人はその報いを受けるべきだ。

しかし私たちはその悪いことをジャッジし裁く立場にあるのでしょうか?

安全運転に人生を歩もうとすることは決して悪いことではありません。

ここでもう一度考えなければならないことは、あなたの正義は私の正義と同じなのかということと私たちは刑の執行者なのかということです。

いつも人前に出て偉そうに講釈垂れてるんだからやってみろ。

今この時だからこそ何かをしないとあなたの存在意義が無い。

と他者の置かれている環境も知らずに非難を繰り返す。

それも承認欲求からくる表現かもしれません。

確かに責められる理由はあったとしても、その言動は品格が問われるのではないでしょうか。

インターネットという文明の利器はハサミと同様にものすごく便利なツールでもあり、人をも殺すツールにもなり得る。

正悪、正誤もポジションによって変わる。

何でもアリな訳ではありませんが、正しければ何をしても良い訳でも無い。

SNSやネットニュースに溢れている情報に一喜一憂せず、感情に任せた「反応」をせず、一度自分自身の中に入れ、考えてから「対応」することこそ情報社会に私たちが求められていることではないでしょうか。

YESかNOか、するかしないかの様な100-ゼロの「極端」な判断では無く、私の見えているものが100%正しい、のでは無く考えることが面倒だから多数の人の考えでいい、のでは無くしっかりと自分自身で考えることが大切だと思っています。

発信する側も、見た人をミスリードすることも、額面通り受け取ってもらえないことも考えて発信しなければならないし、受信する側もすぐに反応せずどういう意味なのか、何を意図しているのかを汲み取る作業をしなければ私の中の相手の真意は見えません。

今のSNS、特にFaceBookはおじさんとおばさんが実名で「正しさ」の主張をしている、とある20代の若者は言っていました。

あれを見ているから若い人たちはSNSから逃げていくんです、とも。

【世界は私とあなたで出来ている】

私に見える世界はあなたに見えている世界では無く、あなたに見える世界は私が見える世界ではありません。

私を守る、これは人間の本能です。

しかし私を守るために他者を傷つけていいのか。

このパラドックスから逃れることができない私たちはもう一度考えないといけないタイミングが9年たった今まさに訪れているのだと思います。

他者がいなければ成立しないこの世界。

しかし他者は自分の思い通りに動かない。

自己を理解するために他者を理解しようとする。

私も胸に刻み、取り組んで行かなければならないと痛感しています。

私のよく行くラーメン屋さんがコロナウィルスの影響で売り上げが落ちている現状だけど、悔やんでいても仕方ないから「免疫力向上ラーメン」を開発したと言っていました。

前向きな取り組みを聞いて何だか嬉しくなりました。

まだこの非常時の出来事は収まってはいませんが、皆様もご自身で今何ができるか、今何をするべきかを考えるきっかけにしていただければと思います。

草花も石ころも枯れ草も一緒に存在することが世界です。

皆様も立ち止まって一息入れてもう一度考えてみませんか?