「日常を努める」ということ
【何もない日常】
皆さま、4月に入りました。
コロナウィルスの影響は終息が見えず長期戦の様相を呈してきました。
皆さまも十分お気をつけいただき、毎日のご生活をしていただければと思います。
普段なら春は出会いと別れの季節、私たちは日常を過ごしているはずでした。
「はず」であった日常は残酷にも私たちには訪れることはありませんでした。
SNSでの喧騒、訃報などテレビ報道から流れてくる情報に胸を痛め、私たちは静かに消耗していっています。
マスクやトイレットペーパー、食品の買い占めから始まった私たち人間の行動はどこまで行っても自分本位です。
SNSでも言いたい放題、ゼロか100かの論争は相変わらず続いています。
先日、中学生である私の長女のバレーボール部の部活の顧問の先生のお別れ会に立ち会ってきました。
もちろん食事はなくセレモニーのみ。
3月25日に終業式のために久しぶりに学校に行ったバレーボール部員たちはいきなり放送で顧問の先生の移動を知ることになります。
離任式ももちろんありません。
先生は3年生の担任をしていたので3月4日からの休校で最後の1ヶ月を奪われました。
3月中は部活も無かったので最後の指導も2月の期末テスト前の部活ということになりました。
新チームになり最初のミーティングで彼女たちと県制覇を約束し、その宣言に面食らった彼女たちと11月の新人戦県3位、1月のジュニアバレー2位まで上り詰めました。
しかし組織の決定は残酷で先生の移動が決定しました。
誰も責めることのできない非常時で、組織の人間として従わなければならない辞令。
果たせない約束を抱えながら別れを迎え、やり場のない気持ちを持ったまま移動する先生の心中は察するに余りあります。
お別れ会当日。
彼女たち部員全員が一人一人全員が涙しながら先生への手紙の朗読がありました。
皆一様に、先生の指導に対して反感を持っていた事が今になって愛情だった事、大切な日常だった事が分かったと言っていました。
しかし時間はもう戻らない。
諸行無常であるこの世界では当たり前など簡単に奪っていきます。
私たちは失ってから初めて気が付く。
しかしその時にはもう遅い。
日常は戻らない。
何気ない日常は私たちに安心と穏やかさを与えてくれます。
約束されていない日常を簡単に失うことは分かっているのに。
世は春になり桜は咲き誇り、そこに出会いと別れがあり日常を描いていました。
バレーボール部員の彼女たちには変則的でもそこに「日常」はありました。
日常は与えられるものではなく努めるもの。
彼女たちの努めた日常を見ていたら、日常を失っていたのは私の方だと気づかされました。
【withコロナとアフターコロナの世界】
長期戦になるかもしれないコロナとの対峙。
beforeコロナを忘れつつある私たち。
働き方、住む、食べる、家族や周囲の人との関係、訪れた非常事態で何もかもが大きく変化しコロナ後の世界へと続いています。
長期戦になるならば私たちはwithコロナとしてどう向き合っていくのかを考えなければなりません。
これから私自身にも起こりうる出来事の中で、今回の出来事は私たち人間にとって何を意味するのかしっかりと考えていきたいと思います。
最後にお釈迦さまのお言葉をいくつかご紹介します。
「努め励むことは、死を離れた境地である。努め励んでいる人びとは、死ぬ事がなく、怠り怠けている人は死んでいるようなものである」
「自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御して初めて、人は得難い救済者を手に入れるのだ」
「恐れなくてもよいことに恐れを感じ、恐れねばならないことに恐れを感じない。そういう者たちは、誤った見解を抱いたまま、悪い場所へと生まれ変わっていく」
「恨みを抱く人たちの中で、私は恨みを抱くことなく、安楽に生きよう。恨みを抱く人たちの中で、恨みを抱くことなく暮らしていこう」
自分自身の頭で考え行動していくこと、この事を中心に据えこの新しい世界を生きていこうと思います。
あなたは1人ではありません。