お寺息子が考える「よりよい、”いのち”とは」

お寺息子が考える「よりよい、”いのち”とは」

「お寺のじかん」をご覧の皆様、こんにちは。

一般社団法人SOCIALTEMPLE嶋田です。

2021年3月21日(日)に「ライフフォーラム」が開催・放送されました。
※山梨県内YBSラジオにて

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ライフフォーラム「今こそ、いのちの話をしよう」(YBSラジオ番組)

テーマは「今こそ、いのちの話をしよう」

記事にも記載がありますが、ライフフォーラムを通じた、願いがあります。

コロナ禍でのリアルな心と体のこと、生きること、そして”いのち”のこと。
人々がよりよくあるために、寺と僧侶は何ができるのか。
共に考えていただける機会となることを願っています。

このメッセージを聞いて、僕が感じたこと、そして僕だったらどう伝えるだろうか?ということを書こうと思います。

一般社団法人SOCIAL TEMPLEの中心となる考え方の一つに、「一人では小さい力でも〝集まり持ち寄る〟ことによってその力を大きくすることは出来るのではないだろうか」とあります。

僕も、参画メンバーとして、ライティングというスキルを持ち寄り、少しでもライフフォーラムを知り、聞いてもらうきっかけに、またはともに考え、意見を持ち寄ってもらう機会を作るために、書こうと思います。

”終わり”と”終わった後”のためにすることだけが「終活」ですか?

最初に問題提起をしようと思います。

「終活」といわれたら、何をイメージしますか?

 

「お墓」「お葬式」「相続」「空き家」「お寺」…

 

おそらく、「人生の終わり」に関わって出てくる”問題”をイメージすると思います。

そして、「終活」では、あなたの人生の終わりに生まれる「問題」を解決しないといけないからやる、という側面が強いと思うのです(「〇活」に共通するものかもしれませんが…)

誤解を恐れずに言うなら、最近の「終活」は、「終わりのこと・終わった後に生まれる問題を考えるのに精いっぱいな状態に追い込んで自分の商品を買ってもらう」というものを感じてしまうことがあります。

 

このときに見えなくなってしまってないか?と思うのが「今をよりよく豊かに生きる」ということです。

だって、自分が死んだ後のことばっかり考えるのも、たぶん気が滅入ると思うんです。

(もちろん安心を買うって発想もあってると思います。僕自身が相続診断士という認定資格を持っていたので‥‥)

気が滅入って、今が豊かじゃなかったら、それはそれでちょっとね、って思うんです。

実際に、一般社団法人終活協議会によると、終活協議会での資格である、「終活ガイド検定」取得者へのアンケート(n=655)から、エンディングノートの必要性を感じている人は9割、一方で実際に書いた人は1割に満たない(正確には9.9%)だそうです。母数が少ないとはいえ、非常に興味深いデータだと思います。

エンディングノートについての意識調査アンケート(2020年12月~2021年3月)

では、改めて「生きる」ことを考えてみるとどうでしょうか…?

お寺息子しまさんが考える「よりよく生きる」、または「豊かに生きる」

僕は、「よりよく生きる」とか「豊かに生きる」とか、ふと考える時があります。

お寺に生まれてきて、お坊さんにはなりませんでしたが、「生きる」を考える時には仏教を入れるときもあります。
そこはお寺の息子らしいかもしれません。

 

ライフフォーラムでは、お坊さん含め、「よりよく生きる」「豊かに生きる」を考える専門家がお話しされるので、僕からは圧倒的アマチュアの、言い換えれば一市民のコメントを表明しようかなと思います。

 

僕が、昨年10月にとあるプログラムに参加しました。

NPO法人コモンビートという、もともと素人100人が100日で自分と向き合いながらミュージカルを作り上げるプログラムをやっている団体があります。

この状況下になって、ミュージカルをいったん休止しつつ、「オンラインで何かできないか?」を追求してできた、オンライン表現プログラム「Cplus

内容としては、1か月間、オンラインだけで出会い、テーマに沿いつつ自分たちが伝えたいメッセージを、何かかしらの形で表現し、発表するという流れになっており、最後の発表もオンラインライブでの開催となっています。

そこでのテーマが「豊かに生きる」だったのですが、それこそいろんなことを考えました。発表の最後の最後に、それぞれが思う「豊かに生きるとは?」を発表する場面がありました。

考えた末、僕が導いた答えは

 

「今」。

 

この結論の意味は、以前僕が書いた記事から引用すると、

プログラムを通しての結論が「豊かに生きるとは、今である」と。

この場合の「今」
この時に言った「今」には多くの意味がある。

それは、

「今この場」
「今このとき」
「今の人生」
「今訪れた悲劇・喜劇」
「今この環境」
「今付き合っている人たち」
「今聞いている曲」
「今食べているモノ」
「今呼吸している自分」

など、まさにすべてに通じる言葉だった、それを感じ取れることが豊かに生きていることだと僕の結論に至ったわけです。とはいえ、すべからくできているわけではないし、この「今」を最高なものにするために生きているとも思います。

このように、「今」を大切にすることが、豊かに生きることにつながるんじゃないかなと考えています。
ライフフォーラムの言い方に近づけるならば、「よりよくある」ということだと。

「よりよい”いのち”」とは

ライフフォーラムのメッセージをもう一度転載すると、

コロナ禍でのリアルな心と体のこと、生きること、そして”いのち”のこと。
人々がよりよくあるために、寺と僧侶は何ができるのか。
共に考えていただける機会となることを願っています。

ライフフォーラムのメインメッセージは、「生きること」「いのちのこと」「人々がよりよくあるため」とあります。

もうひとつ、この記事に入れたい内容があります。それは、今のこの状況下だから、より思うことでもあります。

 

おそらく、「将来が不安」「見えない恐怖」ということが、今ほど話題になってきていることはないと思います。(中略)

そんな世の中でも、この姿勢があれば大丈夫だ、と思えるものがあります。

「未来はわからないけど、出会うものすべてを待っていた」し、その出会うものは「見たいものと見せたいものばかり」だと思っている、挑んでいく。

そして「僕に見えるものだけ、そこにあるもので、たくさんのものが手に入る。人生はヒントだらけなんだぜ」と。
そう思っているから人生を楽しめるし、永遠に夢を追いかけられ続けられる。今を楽しめる。

いつでも来るもの、なるもの、起こること、何もかも「僕は待ってたんだぜ、楽しみにしてたんだぜ」という気持ちの持ちよう、というのを人生の豊かさとして、一つ要素としてとりあげたのです。

上記は、ザ・クロマニヨンズの「生きる」という曲の歌詞を引用しつつ書いているのですが、そこで説かれていることこそ、「今活」、ひいては人が【今】よりよくあるための生き方のヒント、というよりも「生きること」そのものを指し示しているのかもしれません。

 

終活ではなく、「今活」を。
人が【今】をよりよくあるために。
そのことをSOCIALTEMPLEのメンバーとして、また広報という立場として、発信していきたいです。

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ライフフォーラム「今こそ、いのちの話をしよう」(YBSラジオ番組)