先生の「死」について、仲間で語ってみた。
みなさまこんにちは。
ヨーガ・瞑想講師の竹田夕子です。
今回は「死」についてのお話。
(ぜんぜん仏教的なお話ではないです…)
「死」という出来事は
話題にあげることを避けられるような風潮もあるし、タブーのように触れてはいけないこと、とか
「縁起でもない」って隠すこともありますよね。
でもここは「お寺のじかん」です。
なので「死」について
ヨーガ、瞑想を学んだひとりの人間の視点から、また仲間の意見も踏まえてお話ししてみたいと思います。
先生の急逝
過日、わたしの先生が急逝されました。
とても元気な45歳でした。
亡くなる前日まで…
笑いながら楽しそうに講義をされていたので、あまりにも突然の出来事に「???」と、何が何だかよく分からなくなりました。
一報を受けてからしばらくは…
胸の奥に小さな震えはあるけど、
悲しくもない、涙も出てこない、よく分からない時間が過ぎていったのです。
それが次の日のお昼くらいまで続いたかな…
先生が違う世界に行ったのか
わたしが違う世界に行ったのか
パラレルワールドなのか
タイムワープしているのか
ひっくり返って上と下が入れ替わったような、
「???」そんな不思議な感じでした。
同時に
(どうして私は悲しくないんだろう) とか
(先生もびっくりしてるだろうな) とか
(先生は全速力のまま生ききったな) とか
そんなことがぼんやりと浮かんできては、サラリと消えていきました。
みんな消えていく。。。
朝のお天気ニュースのような、日常の1コマになっていく。
そうしているうちに、整理がつき始めてしまって、
「なんにも変わっていない」 というところにストンと落ち着いたのです。
先生は「死」という出来事によって、ガラスの向こう側に行ったような気がするけど、何も変わっていないなーーーって感じて。
先生が亡くなったことが、「今日は暑いでしょう」みたいな朝のニュースみたいに軽くなってしまいました。
体温は感じない。肉体を離れられたから。
ただそれだけ。
「先生はガラスの向こう側にいるけど、はっきりと見えているし、先生の言葉や情報やエネルギーは何も変わらず伝わってくる」
死と喪失感
先生が亡くなったことに、喪失感はない。
これまで伝えてくださったことに、感謝の気持ちは湧きあがって止まらないけれど。
喪失感や、悲しみや、涙が、ない。
1~2日でそんな風に落ち着いたのですが、
こんな私は人間として大丈夫なのか? と少し不安にもなりましたね…笑
ヨーガ、瞑想仲間の反応
数日後に瞑想家の仲間がオンラインで集まる機会が設定されていましましたので、
その時にみんなの様子を伺ったり、みんなに自分の様子をぶつけてみようと思っていました。
当日。
わたしは (みんなはどんな顔してるのかなー) という気持ちで画面を覗きましたら、
みんな優しい顔して、笑っていました。
みんなもやはり、悲しみというものはなく、
「生ききったな」「あっぱれ」「お疲れさまでした」
という言葉で、先生の急逝を弔っているようでした。
わたしが「先生がこんなに急逝したのに、すぐに整理がついてしまう自分が不安だよ」と話したら
「それは人間の生存本能に揺さぶられてて、とても人間らしいことじゃない?」と言われました。
周りと反応が違う、とか、俗にいう悲しみを自分は感じていないこととか、周りと違う自分を不安に思う必要はない。
情動はひとくくりではない。
もしかしたら、わたしが涙を流すタイミングは今ではないかもしれないし。
悲しみが訪れるタイミングが、今ではないかもしれないし。
その瞑想仲間には、お坊さんもいるのですが、その方は、
「先生が亡くなったことで、また別の修行の道が開けたのかもしれないし、こういうことがある度に、(仏道とはそういうことなのだな) と思ったよ」と言ってました。
わたしには悲しみはないけれど
今も先生の姿を見ているし
先生の教えを聞いています。
今回のことを通して改めて思ったことは
今日じゃない。とか
まだそのタイミングがじゃない。とか
わたしは幸せになる資格がない。とか
まだ満ちてない。とか
恥ずかしくて気持ちが伝えられない。とか
思っている時は
明日死ぬ覚悟ができているのか、自分に問いかけることを忘れずにいたいということでした。