身延山でみつけた水子供養の形

身延山でみつけた水子供養の形

「身延山でみつけた水子供養の形」

水子さんとはこの世に生まれ出でる前に命を失ってしまった赤ちゃんのことをいいます。

皆さんのお家には、水子さんはいますか?
生まれるはずだった命は、ありますか?
その子たちの、命日は知っていますか?

私には、水子さんがいます。3人。
1人目と3人目は、心音すら確認できないままに成長が止まってしまいました。
2人目は、心音が確認出来てからゆっくりゆっくり心拍が落ちて、心臓の鼓動が止まってしまいました。
3人とも、初期流産で、赤ちゃんを手術をして体外に出さなければなりませんでした。
あまりに小さかった赤ちゃんは、私の手元には、何も残りませんでした。
遺骨もなく、失った命の空虚感が、今も心にポッカリと穴を開けているだけです。

■水子さんの供養はどうしたらいい?

水子さんを供養したくても、どうして良いのかがわからない人はたくさんいると思います。
お寺に行けば水子供養をしてくれるだろうことはわかっていても、日頃お寺に縁のない方々は、どうお願いしたらいいのか、いくら包まなければならないのか、など、心配の方が先に来てしまうと思います。
また、特に、遺骨すら残すことの出来ない初期流産、初期中絶では、わざわざお寺に頼んでまで供養すべきかなのか自体を迷うと思います。
私もそうでした。周囲のお坊さんに尋ねても明確な答えはなく、お経を上げてあげればそれで良いのだよと言われました。
しかし、赤ちゃんの命日が来るたびに、心がザワザワとして、遺骨すらなかった我が子の形を何かしらにとどめてあげたいと思うようになりました。

■身延山で見つけた水子地蔵

そんなある日、身延山の久遠寺から西谷に下っていく坂にある琥珀堂に小さな水子地蔵が置いてあることに気づきました。
お堂の傍に、小さなケースに幾つかの可愛らしいお地蔵さんが並んでいて、それぞれ大きさや色、表情が違います。

傍らには
「この世に生まれるはずの小さな命。かけがえのない命。この子にどんな人生が待っていたのだろう。そう思うと・・・。
それぞれの事情がおありでしょう。せめて、ご供養してあげてください」
のメッセージと共に、一体につき500円をお賽銭箱に入れて、好きな一体を持ち帰ることが出来る旨書いてありました。
さらに、
「当坊入口に水子観音さまがおりますのでそこにおあずけするも良し。そのまま置いて行かれても住職が供養しますので大丈夫です。水子さんの事を忘れないであげて下さい。」
とも書かれていて、そっと水子さんの供養ができるように配慮されていました。

「これだ」と、思いました。

その時まだニ体だった水子さんの為に、千円をお賽銭箱に入れて、生まれ出る事は叶わなかったそれぞれの子に合った印象のお地蔵さんを選んで自宅の仏壇に安置しました。

なんだか、会うことは出来なかった我が子に心を通わせる拠り所が出来たような気がして、とても救われたのを覚えています。

■本行坊の取り組み

水子地蔵を置いてある琥珀堂はすぐ近くにある本行坊さんの管理でした。
坊の境内の下には水子観音があり、観音様の足下にもたくさんの水子地蔵さんが置かれていました。

この度、この記事を書くにあたり、御住職にお話をお聞きすることができました。

本行坊さんの御住職は自らのお子さんが生まれた際に、「命が五体満足で生まれてくるということは、決して当たり前のことではないのだ」と、強く実感されたそうです。

そして、周囲の話から生まれて来られなかった命もたくさんあるのでは、と考え始めるようになり、誰しもが気軽に行える水子供養を目指しました。

最初は、申し込みをしてもらい、小さな卒塔婆を立てる供養を始めたそうですが、様々な事情があり施主さんが名前を記入することに躊躇いを感じられる場合があった為、お寺に寄らなくても、お経をあげなくても、自分で供養が出来る形を考え、今の形になったそうです。

すると、予期せぬ妊娠や犯罪などで望まない妊娠をし、中絶という選択をしなければならなかった人、流産をした人など、様々な人が水子さんを受けに来るようになったといいます。

その中で、境内まで上がって来るのは「100人の内2〜3人」くらいの割り合いだといいますが、御住職はそれでいいのだといいます。

「供養の為にお経をあげなきゃなんて、それは坊さん側の押し付け。それぞれに色々な事情があるのだろうから、自己完結でいい。水子さんのお母さん本人が救われるのが一番」

「お寺はどうしても敷居が高い印象がある。勝手に来てもらって、勝手に出来る。そうしたら、未婚で水子さんを持ったカップルもきっと2人で来やすいし、それが女性の気持ちにも添い、男性側への自覚を促すことにもなる。」

御住職とのお話の中で端々に優しい視点と配慮が感じられました。一人の父親として、また、水子供養を通じて得た様々な経験がここに活かされているのだと思います。
そして、御住職のこの取り組みに救われている人がたくさんいるのは間違いないことだと思います。

本行坊さんの境内下には水子観音さんが建っています。その水子観音さんの横と、琥珀堂に

坊の下にある水子観音さまの所でも水子地蔵は受けられますが、身延山のメインの駐車場の脇なので、人目を気にされる方は駐車場の脇にある上り坂にある琥珀堂であれば人通りも少なく、誰にも知られずに、そっと水子地蔵さんをお受けして来る事ができます。
また、本行坊さんが代務されている中央市の蓮重寺でも同じ水子地蔵さんが受けられるそうです。

今、我が家の仏壇には、三体の可愛いお地蔵さんが肩を並べて微笑んでいます。
そのお地蔵さんを子供達に見せながら
「実はあなたには生まれてこられなかったきょうだいがいるんだよ・・・」と、話してあげることも出来ました。

■お腹の中の赤ちゃんを亡くすという事

流産や中絶の経験があるというのは、特別な事がない限りは自分から話すことはないと思います。

しかし、子供をもつ母親同士で話をすると、意外にも流産経験のあるお母さんは多く、この世に生まれてこられなかった命の数に驚き、それと共に、それだけの悲しみの数があることに気がつきます。
さらに中絶するしかなかった女性たちは、流産とはまた違う葛藤や苦しみがあったことと思います。

私の場合は流産という形でしたが、それでも、私も、どれだけ涙を流したでしょうか。

子供を授かった喜び。
その子の心臓が動いていないといわれた時に落とされる絶望。(私の場合は)お腹の中で既に息絶えている我が子を、手術の日まで体内に留めておかなければならない残酷。
「もう少し待てば心臓が動き出すのではないか」という僅かな望みを信じたい気持ちと現実。手術への恐怖。

手術台に乗るときは、いつも涙が止まりませんでした。
涙の中で麻酔に落ち、麻酔から覚めてまた、私の中から赤ちゃんがいなくなったことに涙がとめどなく溢れました。
特に三度目の流産をしたときは、麻酔の効きが悪かったのか、泣き叫ぶ自分の声が遠くに聞こえていて(看護師さんに確認した所実際に泣き叫んでいたそうです)、その時は、さすがに術後、目が覚めてから看護師さんに「もう頑張れない・・・!」と号泣してしまった事を覚えています。

私のように初期流産や初期中絶だと掻爬手術という赤ちゃんを人工的に掻き出す処置をしますが、赤ちゃんが体内で育ってからの流産だと人工的に陣痛を起こして、赤ちゃんは亡くなっているのに、出産しなければなりません。
それは、筆舌に尽くし難い壮絶な体験だと思います。

■流産、中絶した女性と水子さんにお寺が出来ること

一度体内に宿した命が、生まれ出ることなく亡くなってしまうということは、心のどこかに穴を開けたまま、埋まる事はないのかも知れません。
前を向こうとしても、フラッシュバックのように思い起こされることがあるのだと思います。

私は、流産や中絶に纏わる女性の精神的肉体的苦痛をもっと男性にも感じて欲しいと願っていますし、特に、お坊さんに知っていていただきいとも思っています。

私は一度、知り合いのお坊さんに流産や中絶について男性の理解が足りないのではないかという話をしました。
そのお坊さんは「男っていうのは、そういうことはどうしてもなかなか実感できないものなんだよ」と、苦笑しました。
確かに、世の中のことの大半は実際に体験してしてみないと理解できないことなのかもしれません。
でも、それが自分の妻だったら?自分自身の身に起こった事だったら?想像してみてください。

流産や中絶は赤ちゃんがお腹で亡くなって、処置をするまでが全てではありません。
赤ちゃんを身籠ったための体調の変化(多くは体調不良)、赤ちゃんが心臓をとめてしまったことの悲しみ。もしくは戸惑い。
手術への葛藤。術後の痛み、妊娠が中断されたことによる急激なホルモンバランスの変化による心身の負担。その後の心の問題。

けれど、流産や中絶後の心のケアは産婦人科で行ってくれるわけではありません。
具体的な体調不良があるわけではなければ内科でもありません。
医療機関にかかりたいとするならば、現状として、精神科で心を落ち着かせる薬を対処法として処方されるだけです。
流産や中絶をした女性たちの大半は、自分の中でそれを消化するしかないのです。
そこに、お坊さんやお寺の奥さんの存在がもっと在ってくれたらと、私は思うのです。

■お寺に望むこと

私が流産したとき、骨すらも手元に残らなかった我が子に何ができるかをもっと早く知っていたら。その門が開かれていたなら。
お寺は水子供養を気負いなくできること伝えて行かなければなりません。
高齢出産が当たり前になり、一部不妊治療が保険適応となった今、水子さんの数も増えていくかもしれません。
不妊治療は一度したら終わりではありません。
赤ちゃんを何度宿しても、うまく育ってくれないことも多いのです。
その数だけの、親の悲しみがあります。
これからお寺が出来ることはまだたくさんあると思います。
そして、予期せぬ妊娠、望まぬ妊娠についても学んでいかなければなりません。

どうか、お腹の中で我が子を失った女性たちの悲しみを救ってあげてください。
たとえ心拍すら取れない初期でもいいのだと。中絶であってもお寺はそれを責めることはなく、出来ることはあるのだと。
そして、供養されずにいる水子さんたちを、救ってあげてください。

まずは、本行坊さんのように、そっと持ち帰る事ができる水子地蔵さんを置いてみる事からでもよいかもしれません。
本行坊さんも同じような活動が広がってくれれば、と仰っていました。
そして、そのことを出来るだけたくさんの方に知ってもらえるよう、どうか、発信し続けてください。
きっと救われる方がいるはずです。
もしお寺に訪ねてきてくれたら、寄り添い、押し付けずに、水子さんを供養する意味を伝えてあげてください。お願いします。

今回、この記事を書くにあたり、とてもセンシティブなことなので、迷いもありましたが、少しでも多くの方考えていただきたく、また、一人でも多く水子さんを供養できずに迷う女性を減らしたく、思い切って筆を取りました。

私も縁あって、僧侶の妻になったのだと思います。自分の体験が少しでも誰かの役に立つよう、これからも発信する場を持っていけたらと思います。
「うちのお寺ではこんな水子供養をしているよ」など、情報がありましたらご連絡ください。皆さまの水子供養の形をまとめて、必要としている方に情報をお届けできる形が今後取れないかと考えています。

※今回は主に私の体験に基づき流産について書きましたが、訳あって人工中絶をしなければならなかった方もたくさんいらっしゃると思います。それぞれに、それぞれの苦しみがあります。
この記事がもし誰かを傷つけたら申し訳ありません。