よくなくす -横山瑞法の別に危なくない法話 vol.3-

よくなくす -横山瑞法の別に危なくない法話 vol.3-

全く自慢にもなんにもならないことなのだが、僕はよく物を失くす。
月に1度はスマホ、車の鍵、財布のいずれかを失くす。
しかし、これまた自慢にも何にもならないのだが、ほぼ毎回家の中にあるので、手元に戻らなかったことは一度も無い。

これら3つのものは外出時の三種の神器であり、家に帰ると初めにどこかに置くものたちだ。
車の鍵なんかは玄関入ってすぐのところに置く定位置があるのだが、カバンの中に入れていたり、荷物を両手に持っていたりすると後回しになる。

そうなると厄介だ。

極度の面倒臭がりの僕は、わざわざ玄関入ってすぐの定位置まで戻ることはまずない。
大体は仕事机の上か、固定電話の横などの主要な生活動線のキーポイントに置くのだが、両手に荷物を持って帰ってきた時なんかは、その荷物をどこかに置くというイレギュラー要素がそもそもその帰宅シチュエーションに内包されている。
「帰宅シチュエーションにイレギュラーが内包されている」ってどういうことですか?と自分に質問した気持ちでいっぱいだがここはスルーして話を進める。

そういう状況だと、荷物を下ろしたその場所のちょうどいい高さにある目についたところに、三種の神器を置いてしまう。
僕にはそういう習性がある。
そして、その習性は習性であるが故に、ほぼ意識することなく行われるので、明確に記憶に止まることがなく、しばらくすると僕の記憶の奥に仕舞い込まれてしまう。

何を隠そうこれを書いている前日の夕方から、僕は車の鍵を紛失していた。
前日の昼には車で出掛けていたのに。

昨日の夕方に気が付きはしたのだが、

「ないな〜」「変だな〜」「ないな〜」「怖いな〜」

と僕の頭の中の稲川淳二がしばらくつぶやいていたが、差し迫って困ることはないのでそのままスルー。

分かっている。
この時点で探しておくべきなのは。
分かっている。
だが僕は、上述の通り極度の不精なのだ。
申し訳ない。

 

翌朝になり、荷物を発送しなければならない用事があって、近くのクロネコヤマトに行こうとした時に、鍵を無くしていたことをハタと思い出す。

いつも置いておきそうなところを確認するがない。
どこかのスキマに入り込んでいるかもしれないと思い、周囲の物を動かして探してみるも。
ない。
置いておきそうなところを5周くらいしてみるが、見つかる気配がない。
こんなに見つからないのは珍しい。
もしかしたら、車の中に鍵を置きっぱなしにしているのかもと思い駐車場まで行ってみるが、ガチガチにロックが掛かっていた。

駐車場で立ち話をしていた2名のご婦人に、「ただ鍵を家の中に忘れてきただけなんです」風の演技をしながら、首を傾げなあがら家まで戻る。

玄関まで戻るとあるアイディアが思い浮かぶ。
昨日帰ってきてからの動きを再現してみようと。

 

行動をトレースしてみる

昨日は両手にカバンと上着を持っていたので、玄関の定位置には置かなかった。
そのまま、カバンを持って仕事部屋へ行きカバンをおいた。
いつもと違うカバンだったので、その中に鍵は入れていなかった。

前日は、坊主道のイベントで甲斐善光寺へ行っていたので、いつもよりもいい作務衣を着て出掛けていた。
なので、荷物を置くとすぐに着替えたはず。
そして、おそらく作務衣のポケットに車の鍵を入れてあったはずだ。

帰ってからの導線を辿りながら、記憶の糸をたぐり寄せる。
そしてそこに自分の行動パターンを重ねていく。
状況を確認しながら、少しずつ昨日の自分の行動が明らかになっていく。

いいぞ。
もう少しだ。

よそ行きのいい作務衣なので、法衣の部屋で着替えてハンガーにかけたのだ。
その時、ポケットに鍵があったなら、きっとどこか手近なちょうどいい高さの目に着く場所に無意識に置くはず。
僕はそういう人間だ。

早速、行動を再現してみる。
まず、上の作務衣をハンガーにかける。(どうでもいいが“さむえ”とタイプすると、予測変換で“サムエル”がやたらと主張してくる。迷惑だ。)
そして、ポケットの中の鍵に気づく。
鍵を手に取り、ちょうど目に着く良さそうなところに仮に置いておこうと思う。(その仮をすぐに忘れるのだが…。)
周囲を見渡すと、棚に置いてあった口が開いている段ボール箱に目がつく。
その中に目をやると…。

「あった!!!!!!!!」

こんなところに仮置きした記憶など全くない。
僕の記憶のなんと頼りないことか。

具体的な行動とその結果を記憶してなくても、行動パターンを知っておくことでことなきを得たことで、あらためて自分の行動や思考の“パターン”を把握しておくことは大事だなと思い知らされた。

 

自己覚知

僕は9年間くらい福祉畑で働いていた(こう見えて一応は社会福祉士資格ホルダーなのだ)。ソーシャルワーカーのようないわゆる対人援助職にとって大事なこととして「自己覚知」ということが言われる。

【以下引用】
自己覚知とは、援助者であるワーカー自身が自分の感じ方、考え方の傾向、知識や技量について意識化し、自ら把握しておくことである。

自己覚知が必要だとされるのには、もちろん理由がある。

ソーシャルワーカーは、サービスの利用者の主体性を大切にし、問題を抱えた当事者自身が自ら問題解決に向けて取り組むことを重要視する。そのため、ソーシャルワーカーが自分自身についてよく理解しておかないと、サービスの利用者をありのまま理解できず私情や偏見にひきずられてゆがんだ捉え方をしてしまう可能性がある。
また、ワーカーが感情的反応をコントロールできずに、サービスの利用者に対してバランスの取れたかかわりが出来なくなってしまうことが危惧されるためである。

関西福祉大学W E Bページより引用「自己覚知について」

【引用終わり】

ザックリいうと、「フラットに他者に接するために、自分の思考や感情のクセをよく理解してね」ということだ。

この自己覚知に至る作業というのは、ツラさをともなう。
なぜならば、自分自身の差別性をはじめとした汚くみっともない部分と向き合わなければならないからだ。(自己否定とは違うよ)
真の意味でやりきれるということはなく、100%できるものでは無いと知りながら、できる限り自分を客観視することが大切だ。
そして、これは一度やったら終わりということはなく、繰り返し取り組み続けなければならない。

関係性の中で生きる社会的な生き物である僕らは、ある程度は天然でみんなやっていることではあるだろう。
「自分探し」というテーマは時代を超えて共有されるし、自己を知るということは、僕らに共通する当たり前の欲求なのかもしれない。

 

自己を習う

自己を知るというと、思い出されるのが道元禅師の『正法眼蔵』。

その中に「みづからをしらんことをもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。」とある。
自分は何者なのか知りたいというのは、人間の根源的な欲求なのだと道元禅師もおっしゃっている。

第1巻の「現成公案」の有名な一節は以下

仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

『正法眼蔵』第1巻「現成公案」

素晴らしく美しい文章だなとあらためて思う。

仏教では無我を説く。
変わらない固定的な自己はなく、繋がりの中でそのつど仮に立ち上がるものを「これが自分というものだ」と錯覚しているのが僕らだ。

錯覚した、むしろ妄想とも言える「◯◯な自分」を作り出して、わざわざ苦しみを買っている。
僕らは皆そんな感じだ。
でも、誰もがその苦しみと迷いの中から出発していく。
お釈迦様もそうだった。

『正法眼蔵』の入門書を読みはじめたのですがとても面白いです。
↓の本を読んでます。

他にもオススメの本があったら教えてください。

ではまた。