かた焼きそばと茶碗蒸し -横山瑞法の別に危なくない法話 vol.4-

かた焼きそばと茶碗蒸し -横山瑞法の別に危なくない法話 vol.4-

結婚前、初めて妻の家に遊びに行った時に食事を出してくれた。
そこで僕は衝撃を受けた。

なんと、かた焼きそばが出てきたのだ。

油で揚げた麺にあんがかかっているアレだ。
それまでの僕の世界では、かた焼きそばはお店で食べるもので家庭料理ではなかった。
しかし、妻の家族の中ではかた焼きそばは家庭料理だったのだ。
しかも聞くと家で麺を揚げているという。

もう僕には何がなんだか分からなくなっていた。
もちろん、とても美味しかった。

そしてまた別の機会に行った時には、茶碗蒸しが出てきたのだった。

それまでの僕の世界では、茶碗蒸しは法事の後の御斎(おとき:法要後の会食)で食べるもので、家庭料理ではなかった。
しかし、妻の家族の中では家で蒸して作る家庭料理だったのだ。
蒸し立ての茶碗蒸しは、アツアツでめちゃくちゃ美味しいことを僕は初めて知った。

ちなみに茶碗蒸しの中に入っているかまぼこが好きだ。

この2つの出来事は僕の世界(常識)を壊して新たに作り直してくれた。
かた焼きそばと茶碗蒸しというは家でも作れる。やればできる。

こういった体験は、僕の世界に清々しく風を吹かせ、気持ちよく変えてくれる。

僕らは、自分で決めつけたり、誰かに言われたり、何かで読んだり…etc
たくさんの物事を、ブッタ斬って分別してわかった気になっている。

このブッタ斬って分別してわかるというのは、長い歴史の中で行われてきた人間の営みである。
科学の進歩だったり、知性の深まりだったりするのだろう。
言葉を用いる僕らは分別からは逃れられないし、その恩恵を受けて不自由ない暮らしを得ている。

しかし、分けることによって分けた対象に執着が生まれ、そこから苦しみが生じる。

なぜウチは家でかた焼きそばが出てこないのだろうという渇愛が生じ、アツアツの茶碗蒸しを想像して渇望し、今ここにそれがないことによって不満足な気持ちになるのだ。

一般では「分別がある」というのは良い意味で使われるが、仏教では「分別がない」がこと良いとされている。
無分別とは常識がないということではなくて、物事を言葉や概念で分けることなくありのままに見ることである。

かた焼きそばはかた焼きそばでそれが家庭料理か否かは問題にならないのだ。
自分の思惑などに引っ張られず、ただただありがたく美味しくいただくということだ。

ん、そうなのか?

…。

無理してかた焼きそばを引っ張ってみたけれど、例えが全然うまくできないみたいなのでこのあたりで終わりにします。

では皆さん!ゴミの分別は各自治体のルールに従ってきちんとやりましょう。
分別があることは普通の社会生活をする上ではとても大事なことです。

 

僕はかた焼きそばに引くほど酢をかけて食べます!