不幸なことに不幸なことがなかった – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.5 –
タイトルは、映画「アイデン&ティティ」で銀杏BOYZの峯田氏が扮する主人公が歩道橋の上でうなだれながら叫んだ言葉だ(ったと思う)。
ロックバンドで活躍することを夢見る主人公が、どうしようもなく「普通」で何者にもなれない自分に苦しんだ末の言葉だった。と思う(20年前に見たので記憶に自信がない。
が、麻生久美子が素敵でしばらく夢中になったことはよく覚えている)。
原作は、仏教フリークでお馴染みのみうらじゅん氏。
この映画に出会った頃の僕は、東京で学生生活をしていた。
キラキラしたキャンパスライフなんかを謳歌してはいなかった。
全然彼女もできないし、バンドサークルの後輩カズ(変なパンクス)には服装がダサいとディスられていた。
どうすればオシャレになれるか分からなかった。
何年東京にいても垢抜けない自分にまとわりつく、うっすらとした負い目だけは常に身にまとっていた。
何かにどうしようもなく夢中になったり、劇的な努力をしたりすることは無かったけれど、他人とは違う特別な、何者かになりたいような、漠然とした欲求だけがあった。
俺は違うはずだ!という風に。
いわゆる“こじらせて”いたのだ。
「不幸なことに、不幸なことがなかったんだ」
そんな当時の僕に、どこまでもありきたりで普通な僕に、このセリフはめちゃくちゃ刺さったのだった。
そうこうしている間に、僕は流されるままに僧侶の資格を取得し、坊さんになった。
就職活動から逃げて、収まりが良かったのが「実家の寺を継ぐ」ということだった。
漠然とした「生きづらさ」という生きる苦しみを抱えてはいたが、それを解決するためではなく、逃げて入り込んだ道だった。
そこには、「いずれ死ぬ」ことに対する患いや憂いなんかは少しも無かった。
モラトリアムを半ば強引に引き延ばすかのように坊さんになったのだった。
僕にはこれを「ご縁」と呼ぶのは憚られる。
どうしようもないエピソードすぎて「ご縁」に申し訳ないからだ。
いわゆる「発心」というものがなかったのだ。
※発心(ほっしん):仏道を志す決心
それから10年以上経った今はどうかというと、当時と比べると仏教への理解も多少は進んだし、それなりの経験も積んだ中で、これからも坊さんをやろうと、仏道を求めようという気持ちなっている。
この間に、「この瞬間が俺の発心が生じた瞬間だ!」というものは思い当たらないが、それらしきものが今の自分の中にはおぼろげながらにあることに気が付く。
こんな風に後から気付く「発心」があってもいいのではないか。
しょーもない僕の、しょーもない頃の、しょーもないエピソードも
今の自分を自分で少しだけ認めてやれるようになれば、「ご縁」と呼んでもいいような気持ちになる。
過去は僕には追いつけないし、僕も未来を追い越せない。
現在にあって過去と未来を生きながら、どうしようもない現在をころがり生き続けるのさ。