寺GO飯から感じた”仏教” はじめに

寺GO飯から感じた”仏教” はじめに

はじめまして、寺GO飯の実行委員長より

私は、鎌倉にある円覚寺派専門道場にて修行ののち、平成5年より臨済宗妙心寺派「禪林院」の住職をしている山田哲岳(やまだてつがく)です。子ども食堂「寺GO飯」前実行委員長、そして現在は一般社団法人SOCIAL TEMPLEの生涯サポート事業部の部長です。寺GO飯は、立ち上げ当初からずっと携わっております。

寺GO飯の生い立ち

今回筆を執った(というよりも今はパソコンを開いてワードソフトを開く、ですかね?)のは、「寺GO飯」の立ち上げの頃のことを書いてほしい、とリクエストをいただいたからです。 坊主道として立ち上がったばかりの頃、子どもを対象とした活動をしたいと言う想いと、寺院の建物を活用したいと言うことで「子ども食堂」が当てはまりました。 代表の近藤と横浜の寺院で開催している子ども食堂を視察させていただき、参考にした部分と地域にあった内容で取り組むことになりました。 第1回寺GO飯の様子

”子ども食堂”という言葉に込める「伝える場にしたい」思い

子ども食堂というと金銭的な貧困というイメージがありますが、核家族化が進む現在、両親が共働きで孤食であったり、昔のように3世代4世代が一緒に食卓を囲むことがなくなり、また、親御さんも近所づきあいが減り、子育てに悩みがありながら相談できなくなってしまった孤立、それらも精神的な貧困になってしまうのではと考えました。 スーパーで買い物をしたとき、子どもの学校で見かけたとき、今まですれ違うだけだったものが顔見知りになるきっかけにもなってくれれば、地域のコミュニティーとして。 大勢で食べる楽しみを知ってもらいたい。 と同時に日本の食事マナーも知ってもらえる場にしたい。 肘をつきながら、器を持たずに犬食いする、食べながら歩く、口に物を入れながら喋る、クチャクチャと音を立てて食べる、携帯を弄りながら・ゲームをしながら食べる。 本来は家庭で学んできたことが出来なくなってきているので、少しでも伝えていける場に。 自らも伝える なによりも、「食べる」と言うことは他の命を奪うこと。 自身の口に入るまでは農家や漁師、牛やブタ、鶏を育ててくれる人、運ぶ人、売る人、調理をする人・・・数えきれないほどの多くの人たちが関わってくれていることに気がついて欲しい。 もちろん、そこには「金銭」は対価として支払いますが、命を奪われた生き物には支払われません。 命を「いただきます」、食事に関わってくれた方に感謝を込めて「ごちそうさま」の感謝の気持ちを「対価」として届けて欲しいと願い「食育」の活動につなげていきたい。

「みんなのため」の場、それが寺GO飯

寺GO飯は子どもたちの宿題をみてくれる大学生も関わって、学習支援も行っています。 宿題が終わった子どもは大学生と遊んでいます。参加してくれる大学生のボランティアは教育学部の大学生が多く、将来の経験の場にもなってくれていると思います。 子どもを大学生に預けて親御さんは少しの時間、子どもと離れて会話を楽しんでくれています。   子どもたちには「食」を通じて学びの場に。 親御さんは少しの時間「ホッ」としてもらう。 大学生は将来の経験として。 ボランティアの方は参加者の笑顔を楽しみに。 僧侶は普段接することのない方々に触れる。 寺院は人が集い賑やかに。   寺GO飯のメンバーたち それぞれが得るものが大きいのが「寺GO飯」です。 これまで続けてきた寺GO飯という「場」を、これからも続けていきたい。 そんな思いも引き継いでいきたいと思います。 寺GO飯の仲間たち せっかく筆を(パソコンを)執ったので、今後は、「寺GO飯」の場で感じた仏教について、書いていこうかなと思っております。 合掌