【インタビュー】 死と向き合い、生を実感する登山〜ヒマラヤへの挑戦〜(登山家僧侶斎藤大乗さん)

【インタビュー】 死と向き合い、生を実感する登山〜ヒマラヤへの挑戦〜(登山家僧侶斎藤大乗さん)

日本最北端の離島、礼文島で日蓮宗妙慶寺に住む斎藤大乗さん。

僧侶として日々を過ごす傍ら、登山家として世界で活躍する。

2023年5月、斎藤さんはチームを率いてヒマラヤ、マナスルの未踏峰に挑戦した。

今回、そのインタビューをする中で、登山の魅力や、山に登る理由を伺うことができた。

写真:斎藤大乗さん

 

今回は、ヒマラヤの未踏峰の山に挑戦したという事ですが、そのお話はまた後ほど聞かせていただきます。まずは、斎藤大乗さんを知るために自己紹介をしていただきたいと思います。

まずご出身は?

北海道礼文島です。日蓮宗の妙慶寺というお寺に生まれ育ちました。私のお寺は、すぐ下に浄土宗さん、すぐ上に浄土真宗さん、曹洞宗さんの四件が並んでいるんです。他にも島の南側にもお寺がありまして、島には全部で9ヵ寺あります。人口2300人という小さな島で9ヵ寺なんであとは、お察しですよね(笑)

 

実は父親が富良野、母親が札幌出身、両親が京都で暮らしていた時の住所がそのまま本籍で生粋の礼文島民かと聞かれると実は違います。礼文島にいながらも団参でよく身延山に行ったり七面山に登ったりしていました。

 

 

礼文島にはいつまで住んでいたのですか?

高校卒業するまで礼文島に住んでいました。

小さい頃から親の姿を見て、なんとなくお坊さんになるもんなんだって思っていまして、高校卒業後は、山梨県の身延山大学に進学しました。4年間しっかり留年なしで卒業いたしました。(笑)

 

大学4年のゴールデンウィークに日蓮宗の修行で千葉に行きました。

山梨から千葉に向かう移動中、忘れもしないちょうどアクアラインを通っている最中に礼文島の友達から電話がかかってきました。内容は、僕の小中高と一緒に遊んでいた友達が自殺してしまった、というものでした。

 

あまりのショックで実習中、何も手につかずずっと泣いていました。

それを知った先生方の提案で、実習中に亡くなった友達の供養をしてくれる事になりました。

他の実習生も一緒に30人ほどで、その友達の追善供養をしたんです。

よくお寺に生まれて霊感とかあるんですか?と聞かれるのですが僕は全くありません。

だけどその時だけは、もう会えなくなった友達と縁があったと感じています。

 

その後大学を卒業して、春に行われる日蓮宗の修行である、信行道場に入ろうとしましたが、やっぱりそれどころではありませんでした。

今考えれば、奢った考えたのかもしれませんが、

僕はお坊さんなのに助けてあげることができなかった。

なんで話を聞いてあげれなかったんだろうって、感じに思っちゃったんです。

 

そんなことを考えたりして、その頃「死にたいな」なんて考えたり

ぼーっとしている時期がありました。

それを見かねた父親が僕に「インドにでも行ってこい」って言ってくれました。

 

それで日蓮宗で主催しているスタディーツアーズというものに参加しました。

インドのコルカタに行き、ストリートチルドレンと触れ合ったりしました。

言葉が通じず、あったからと言って彼ら彼女らに何かできたとは思えなかったのですが、

一緒に遊んだり歌ったりしただけで僕の心が落ち着きました。

そしてインドにいる最中これからのことを考えた時、もう全く別の仕事をしてみようって思ったんです。

それで、23歳の時に自衛隊に入隊しました。

 

なぜ自衛隊だったのですか?

破滅願望が裏返った感じですかね。

死なないんだったら、厳しいことやってみようって。

自衛隊に入ったら日々の日課をこなす事が大変で色々と考える余裕がなくなりました。

 

そんな中、自衛隊に山登りが好きな先輩がいたんです。

その先輩に「山に行くぞ」って誘われました。

僕のいた部隊って千葉県の木更津だったので、山というより海が近いところだったんです。

他の先輩は、後輩に「波乗りに行くぞ」と誘うのが普通なのですが、僕は山登りをする運命だったみたいです。

ちなみに、その先輩に山登りで土日を抑えられていたので、一度も波乗りに行くことはありませんでした。(笑)

 

最初に連れて行ってもらった山は八ヶ岳でした。

八ヶ岳の上から1、2、3番に高い山を日帰りの日程で登りました。

登山の素人は普通はやっては行けないコースです。(笑)

先輩は山登りに慣れていて、僕も自衛隊に入って体力もあったので、なんとか行ってくる事ができました。それが山登りをするようになったきっかけです。

 

そこで山登りと出会ったんですね。自衛隊ではどんな経験をしたのですか?

自衛隊に入って2年目には東日本大震災を経験しました。

僕はまだ下っ端だったのですが、ヘリコプター部隊のトップの部隊で司令官のお付きの通信員という立場だったので、仙台の作戦本部の中に入ってしまったのです。作戦本部には当然下っ端の人間なんてほとんどいません。

隊長などトップの人たちが詰めて、今後どう部隊を動かすか、なんてことを話し合ったりしているので、下っ端の僕がそこにいても仕事がないんです。なので、そこにあるモニターをずっと眺めていることしかできませんでした。

同期のみんなは被災地に入って救援などに立ち回っている中、僕は何もできないと感じながら悶々としていました。

そんな時、海岸線を歩いているお坊さんをモニターで見ました。雪の降る中読経をしながら歩く写真で有名な小原宗鑑さんです。それを見た時、自衛官としても何もできず、お坊さんとしても何もできない自分に「僕は何をしているんだろうか」と思ってしまいました。

でもそうして色々なことを考えているうちに、「これはもしかして、見せられているんじゃないか」って感じたんです。俯瞰で何か悶々と考えながら見てなさいって時間なのかなって。お坊さんとしても自衛官としても中途半端で何もできなかったけど、できないなりに、あの地震と向き合える時間をもらえたような気がしました。

 

自衛隊にはいつまでいたのですか?

その後も、色々と厳しい環境ではありましたが、居心地は良かったように思います。でもどこかで、礼文のお寺に戻るんだろうなって気持ちはありました。それもあって自衛官という立場にも振り切れない自分がいました。

それを感じた当時の小隊長が僕に、「なんとなく続けていくのであれば、一番厳しい部隊で一年間しっかり働いて、気持ちよく辞めたら?」って引導を渡してくれたんです。

その小隊長の言葉で決心して、木更津の部隊で一番偉い人のところでお世話係をすることになりました。身延山久遠寺で言うところの法主猊下の随身っていうのでしょうか。そこで一年間勤めることになったんです。普通は三ヶ月交代が基本なんですけど、一年やらせてもらうことができました。そこでは、色々な偉い方々とお話をする機会があり、これまでとは別の視点から自衛隊を見ることができるようになりました。

 

結局その一年を終えて、自衛隊を辞めて山梨に戻ってきました。

山梨には身延に通うためのセカンドハウスがありました。

そして、その後は体力だけはあったので、ラフティング川下りの仕事をしたりしました。

自衛隊の偉い人から学んできた知識で自衛隊の解説書を出したら、それなりに売れたのでそれは良かったと思います。後は、ライターをやったりという感じで生活をしていました。

 

自衛隊の先輩と離れた後も登山は続けたのですか?

山登りは、山岳会というグループに入り、継続してやっていました。その頃になると、先輩に誘われて登るのではなく、自分で登りたいと思うようになっていましたね。悔しいですが(笑)

また会で知り合った人を通して「歩荷」という山小屋などに荷物を運ぶ仕事をしたりもしました。

レーダースキャンを背負って富士山の石を一粒一粒スキャンするって仕事もしました。その時は、富士山に2週間で10回登りましたね。(笑)

 

そして山岳会で山登りをしているときに、赤岳鉱泉という山小屋で花谷泰広さんと出会い、花谷さん主催の海外登山メンバー募集の話を知りました。日本は昔、数多くの海外登山をおこなってきたのですが、最近は海外登山の機会が減ってきており、その登山文化継承のために若者たちに経験を積ませて海外登山の芽を潰えないようにする、というのが花谷さんの目的でした。しかし、参加条件には年齢制限があり、自分の当時の年齢だと条件に当てはまりませんでした。しかし山に登るたびに海外登山への思いは大きくなっていきました。

それで思い切って申し込んでみたんです。

最初は年齢の事で断られてしまったのですが、その後花谷さんから連絡が来て、「お前行くか?」みたいな。もう、「行きます!」って二つ返事でした。

 

僕が行ったヒマラヤキャンプはパンカールヒマールという未踏峰の山を目指したました。メンバーとの顔合わせから半年でネパールの地に立ったのですが、当初登ろうとしたルートでは登れないことがわかり、別のルートで登ったのですが体調不良になるし、酸素は薄いしで大変でした。それでも死力を尽くして登ることができました。

山頂で見た景色が忘れられず、「またここに戻ってくる!」って心に決めたんです。

しかしその後コロナが流行ってしまい身動きが取れなくなってしまいました。もうなんというか・・・。

去年コロナが緩和されるかどうかって時に、もう一度行く機会がありまして再度行ってきたんです。

それでこの勢いを大切にしなければと思って、今年も登りに行くと決意し、これまで参加する側だったのですが、今度は自分で企画して行ってみようと思い、今回のヒマラヤの未踏峰に挑戦してきました。

 

今回の挑戦について教えてください。

今回、3月31日から、45日の間、ヒマラヤ、マナスルの未踏峰の山に登ってきました。

ネパールについて最初にカトマンズに3日滞在し、そこから10日間をかけてベースキャンプを張る地に着きました。最初は雪がない状態でスタートしましたが、途中でどんどん降り始めてしまい、結局最後はその雪で山頂まで行くことができませんでした。

メンバー中には、厳冬期の北海道を北から南に縦走したり、以前に一緒にヒマラヤキャンプに参加した人を選びまして、パワーで負けることはないと思っていました。ベースキャンプから頂上までアタックする、サミットプッシュ期間を20日用意しました。しかし、その中で一週間しか晴れの期間がありませんでした。雪は膝下まで降り積りラッセルに次ぐラッセル(=雪をかき分け道を進む)等々でついには断念しました。

大自然について感じることは何かありますか?

標高が上がれば上がるほど生きているという充実感に満たされます。そんな大自然を相手に冒険ができて毎回幸せに思います。

しかし、今回の挑戦では自然の猛威を感じました。

ベースキャンプから4日かけなければ山頂には辿り着きません。それなのになかなか晴れが続いてくれませんでした。もう吹雪がすごくて視界ゼロという状況の中GPSを頼りに突っ込んでいくような感じでした。自分たち人間が自然にどこまで抗えるのかという挑戦でもありました。

でもやっぱりコテンパンに負けましたね(笑)

 

雲一つなく晴れていて、天候に恵まれているかと思ったら、次の瞬間吹雪になりホワイトアウトするんです。そうかと思ったらまた晴れて、の繰り返しなんです。なので、晴れているうちに地形を覚えて、ホワイトアウトしたら歩き始めるんです。この方向は大丈夫だと。方向を決めたらただひたすら歩いて、また晴れ始めたら方向を確認する、という感じでした。

晴れている時でも、もうそこにいるだけで必死なんです。

 

今回の挑戦を通して学んだことはありますか?

今回、バラサーブという役職を初めてやったんです。

バラサーブというのは、ネパール語で隊長という意味です。

隊長は1参加者として登るだけではなく、チーム全体の方向性を示したりするわけですが、その隊長が慌てちゃダメということでネパールの方に、チームの隊長であることへの自覚を促されました。ただ登っているだけなら、リーダーにはなれないし、今回はとても貴重な経験になりました。

 

最初のアタックで山頂近くまで行った時、ナイフリッチという両側が切れ落ち崖のようになっている細い尾根があるのですが、その直前で左巻きのルートに行くことにしました。そうしたら、そちらのルートが凍っていたんです。その時は、雪の上を歩くことがメインであると判断し、凍っている時に使う道具はほぼベースキャンプにおいてきてしまったのです。山頂は目の前だったのですが、凍っている上に急斜面であり、またいつ悪天候になるかもわからないので、スパッと諦めて一度ベースキャンプに戻り別ルートで挑戦するという判断を下しました。

結局、山頂が6473メートルのところ、6270メートル地点までなんとか行ったのですが、そこで引き返たという形になりました。あと200メートルでした。

 

結果が全て誰も怪我をせず一人もかけずに帰ってこれました。悔しさがありますけどまた挑戦するチャンスができたと思っています。

 

また、今回良かったと感じていることは、山に行くまでのことをキャラバンと言うのですが、キャラバン中に寄れるお寺には全て寄り布施をしてまいりました。またベースキャンプに現地のチベット仏教のお坊さんを読んで出発前の安全祈願をしていただきました。

実は登山中にクレバスという氷と氷の割れ目に隊員一人が落ちてしまったんです。クレバスというと普通は10メートルもある氷の隙間で落ちれば命の危険もあるのですが、その時は道具を少し落としただけで怪我がなかったんです。それは安全祈願をしてもらったおかげかなって思っています。

山を離れる前には、またご縁がありましたら登らせてくださいとお願いして帰ってきました。

神聖なところに入る時には必要なことだと思います。

やっぱり自然と宗教っているのは切り離せないと思います。うまく言葉では言えませんが、そこをおろそかにして、霊山に土足で入ってはいけないのだと思います。

 

今回は頂上まで辿り着けませんでしたが、またチャレンジする予定はあるのですか?

やりたいとは思っていますが、特に今のところは計画はしていません。

お金もそれなりにかかってきますので。出してくれるところがあれば良いんですけどね(笑)

今は、ヒマラヤの案内のお仕事をいただけそうなので、それに合わせてお釈迦さまの誕生の地であるルンビニに行こうと計画しています。

なぜ山登りを続けるのですか?

やりたいと思ったことは、すぐに行動に移さないと何が起こるかわからない、勿体無いって感じですかね。実は友人の自殺だけではなく、自衛隊時代の上官が事故で亡くなってしまうという出来事にも直面しました。その先輩に自衛隊の解説本を書くので、出来上がったら見てくださいって話をしていたんです。でも結局作る前に先輩は亡くなってしまいました。後回しにせずにすぐに取り掛かっていればなって思いました。

それで今作らないと一生作らないままで終わってしまうなと思い、解説本を作り上げました。僕なりの先輩への供養でもありました。

 

身近な人の「死」というのは僕の大きなターニングポイントではありました。

それが原動力になっているところはあると思います。

 

山登りの魅力はどんなところなんですか?

登山の魅力はやっぱり普段見れない景色がそこにあるということでしょうか。

あと、歩いている最中にとっても頭がクリアになる時があるんです。なんでしょうかね。なんか色々な考えがまとまったりするんです。本堂でお経を読んでいる時にも似たような経験をすることがあります。

それで、すごく頭がクリアな状態で厳しい急斜道を登って登って登ったその先にある景色が最高の景色だった時、それはもう癖になってしまいます。それが夏山の魅力です。

 

冬の雪山にはまた別の面があるんです。やっぱり死ぬんですよ。下手をすると。

アイスクライミングなんかもやるんですが、一度、垂直の場所を登っている時、手に力が入らなくなってしまい4メートルほどの高さから落下したことがあるんです。そのあとはしばらく怖くなりましたね。でもそんな死と隣り合わせの場所にいる時「自分が生きている」とすごく感じられるんです。その「今自分が生きている」という充実感は何ものにも変え難い感覚ですね。

どうしようもなく抗えない大自然が目の前にあり、その中に自分が死と隣り合わせているから、生きているという充実感が出てくるのだと思います。

それとそこには困難を乗り越えるという楽しさもあるかもしれません。そういう意味では、打たれ強くなったかなって思います。

 

それと単純に冒険が好きなのかもしれません。山も川もそうですが、おそらく砂漠を歩いているだけでも楽しめるのではないかと思います。

歴史上に、時々冒険をするお坊さんが現れるんですけど、三蔵法師だとか、日蓮宗で言うと六老僧の日持上人とか、近年で言うと川口慧海さんとか。そういうお坊さんの追体験をしたいなって思いがあります。

ヒマラヤキャンプで8000メートルの山を見たときに、古代インド仏教の世界観の須弥山の世界を感じたんです。その時、自分は今古代の仏教観の世界の中にいるんだって感じてすごく嬉しくなったんです。

 

現代ってスマホで大体の情報って出てきちゃうんですよ。山の形だってグーグルアースを使えばある程度わかってしまう。

でも実際に行ってみると思っていたものとは違ったりするんです。

その実際の世界を見てみたいって思いがすごくあって、未踏峰の世界なんて特にワクワクするのですが、それを見た時、今まで知らなかった世界を知った時に、自分の世界が広がる感覚があるんです。

それは僕が今生きる生き方として、これがダメならこれでやってみよう、と言う感じであの手この手で色々試してみたり、一つの考え方に縛られるのではなく、色々な物事の見方ができるようになる、そんな感覚ですかね。

 

それってすごく仏教的な物事の見方ですね。

そう言いつつ、礼文島に戻って「お寺を継ぐ」という事にすごく縛られているんですけどね。(笑)

でも、こうやって興味を持ったことを一生懸命やってみて、島に戻った後に、「こんなものを見てきたよ」って言えるお坊さんになりたいとは思いますね。

 

島の人に、こんな生き方もあるよ、と新たな視点を伝える事ができるお坊さんなんてとても素敵ですね。

死にたいと考えていた時期があったと言いましたが、登山を経験して何か変わりましたか?

今でも大切な人の死を思い出したり、何かそのような出来事があれば辛くなったりすると思います。

だけど、このような登山の世界を知って、楽しさや、生きている充実感があるから踏みとどまれている気がします。

そこでは、色々な人とも出会ってきましたし、困った時にみんなが助けてくれるからセーフティーネットになってくれていると思います。だから今、昔のように死にたいと思う気持ちになったとしてもなんとかなると思います。話ぐらい聞いてやるぞ!って人は、ありがたいことにたくさんいると思うので。

 

 

礼文島のお寺に戻ってやってみたい事などはあるのですか?

今礼文島でビールの原料のホップを育てているんです。ビールの美味しいところって緯度の高いところなんです。ってことは、ホップは緯度の高いところで育つんじゃないかって思ってやってみたら、うまく育ったんです。それでこれを島中に植えてみんなで育てたら地ビールを作れるんじゃないかと思い、色々な人に声をかけてみたら15人くらい集まりました。ふるさと納税の返礼品なんかも考えているところです。

 

その活動が島の人たちの繋がりにもなったりして、これひょっとしたら、意外とお坊さんっぽいことやってるんじゃないかって感じたんです。

 

ホップの苗を檀家さんに渡した時に、その檀家さんの知り合いが興味を持ってくれたりすればどんどん色々な人と繋がっていくようになると思うんです。

 

それにビールがうまくいくようになれば、漁師以外でも島にいながら稼ぐことができるようになるわけですから、これからの若い人の為にもなっていくんじゃないかって思うんです。

そうすれば、島に移住者も増え、島が栄えれば、自然とお寺も栄えるんじゃないかって考えています。

 

まさに地域にの活性化ですね。そこで集まる人に登山の経験を語ることができたら地域の人々の心も活性化させることができるのではないかと感じました。今回はとても貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。