舞台での表現で感じた「仏教」【自灯明 法灯明】

舞台での表現で感じた「仏教」【自灯明 法灯明】

こんにちは、SOCIALTEMPLEのライターの嶋田です。

突然ですが、あなたは「舞台に立つ」という経験をしたことはありますか?

よくある、「こういう人生のステージに立ったことがある!」みたいな美談の話じゃなくて、物理的に、スポットライトを浴びて、何かを演じた経験、という意味で、です。

僕自身はありません。中学校とか高校とかで、卒業生の送り出しのビデオ(これ死語だな…動画です)を撮ったときに何か役を演じたことなら。

あとプレゼンなら。

実は以前、今住んでいる山梨から東京に通って、自らが出演するミュージカルの稽古に出ていました

とはいえ、僕はプロの俳優ではなく、一般のしがないサラリーマンで、ソーシャルテンプルのボランティアです。

「市民で作るミュージカル」と呼ばれるものです。

プロの俳優が演じるのではなく、あくまで「ステージに立ちたい」といわゆる市民、アマチュアが手を挙げて参加しています。

「多様性」って、結局、なんだっけ

「ステージに立ちたい」という思いを持つ人は、本当に多様です。大袈裟な表現ではなく。

老若男女というジャンル分けだけじゃなく(なんだったら男女という表現も適切ではない)、車椅子でないと行動が難しい人、目が見えないので白杖や人のサポートが必要な人、出身地が海外で日本語に慣れていない人、という多様っぷりです。

会社でよく聞く、またはテレビやラジオでよく聞く「多様性」は、画面の向こうでしかないけど、このミュージカル作りは現場であり、リアルであり、「受け入れよう」という言葉さえも不要なのです。

なぜなら「共に作る仲間」なのであって、「受け容れる対象」ではないからです。

仏教にもある?多様性の話

なんでお寺・仏教のメディアでこんな話をしたのかというと、最近見かけた、僧侶でメークアップアーティストである西村宏堂氏の記事を拝見したからです。

西村宏堂氏は、自身も当事者として、LGBTの活動家としても活動しています。

そんな西村氏の記事に、こんな話がありました。

西村氏「私はかつて自分自身が嫌いでした。自分のセクシュアリティに悩まされいつも孤独でした。

でも半信半疑だった仏教は2000年以上も前から私の味方だったのです。着飾るのが大好きで同性愛者の私が僧侶になってもよいのかと初めは悩みました。でも観音菩薩の像を見ると、きらびやかな衣と装飾品を身に着けています。お経にはこんな言葉もあります。

『みすぼらしき装いの者に耳を傾ける者はなし 気高き者は荘厳なものを身にまとう』

観音菩薩とこの言葉に勇気をもらって、私は僧侶になる決心をしました」

NHK みんなでプラス 「ハイヒールを履いた僧侶 西村宏堂」より

お経ひとつとっても、仏教は包み込んでくれる。

「私が味方だ」「僕がそばにいるから」なんてことばさえ使わなくても、「教え」はひとりでに味方になる。

どのような人であっても、教えは「味方」になる。その多様性の懐の広さが、仏教にはあります。

かくいう私も、お釈迦様が涅槃(=ご逝去)なされるときに語った言葉である「自灯明 法灯明」が好きで、今も自分の座右の銘です。

「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えのかなめは心を修めることです」

全体を読むと難しく感じられるかもしれませんが、私の捉え方としては、「どんなときも、最後は自らが自らを導きなさい。されども支えを必要とするときがあれば、そのときは法(お経でもなんでも、教え)を拠り所としなさい」という事だと考えています。

※偶然ですが、西村氏が山梨県で講演されるそうです。ご関心ありましたら以下もご参照ください。

『正々堂々 わたしを生きる』西村宏堂さんの講演会を開催 詳細はこちら

自らを灯明とする、自己表現

ミュージカルづくりの現場においても、多くの壁があります。

歌を歌って表現すること、踊りを踊って表現すること、役作りを通して表現すること。

全て「自らで自らを導く」ことを通さねば生まれないものです。

なぜなら、いくら役があっても、それは「自分」という人間がフィルターを通して見せているものにすぎないから。

でも、それでも不安な時がある。だから「法」という灯明を拠り所とする。場合によっては人を頼ることもあるけど、それは「自らを、自らで導くための補助」に過ぎないのであって、最後は自分が決める。自分で決める。

その芯が通った「自分」が存在して、初めて役のフィルターを通した「自分」が表現できる。そんなことを感じました。