変わらないことを望むのは愚かなことだが – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.9 –
今年のお盆も無事に諸事を終えることができた。
ほっとしている。
最近は毎年お盆前になると「今年は無事に乗り切れるのだろうか」と心配し、食事に気を遣ったり、運動をしたり、休養を取ったりと、体調管理に気を配る。
それほどのことかと言われそうだが、それほどのことなのだ。
ワンオペ住職寺院では、お盆の職務を住職が全うできなければ、代わりになってくれる人はいないのだ。なぜなら、他のお寺も同様に忙しいから。
歳を追うごとに、体に堪えるようになってくる棚経。
「来年はやり方を変えようか」と、ここ数年は考えているが、良いアイディアも無く、まだいけそうかなという思いもあり、変更に踏み切れてはいない。
しかし年々体力の衰えは否めない。
来年こそはやり方を変えようか。
今年は住職を務める2ヶ寺とも、久しぶりに通常通りの施餓鬼会法要を行い、本堂いっぱいの方々にお参りしてもらうことができた。ありがたいことであった。
数年前までは、毎年決まった時期に決まった行事を行えるのが、当たり前のことだと思っていた。
しかし、毎年決まった事が、決まった時期に行えるということは、とてもありがたいことだと思い知らされたここ数年。また、日々新しいものにさらされ続ける現代において、お寺が社会に提供すべき“変わらないこと”の価値もあるのでは無いかと感じるようにもなった。“変わらなさ”の価値を考えていきたい。
変わるもの、変わらないもの、変わりつつあるもの
山梨県では、先祖の写真や位牌、きゅうりの馬と茄子の牛を飾り、季節の果物や野菜、餅にきな粉と黒蜜をかけたもの(信玄餅の起源なのか、それとも逆か)を飾るのが一般的だ。
それが基本の型だが、お盆の棚経で各家をまわると、家ごとに個性的な精霊棚の飾り方があることに気が付く。
お膳に何種類もおかずを載せて豪華にお供えする家。
驚くほど大きなきゅうりと茄子で飾りを作る家。
子ども達が折った折り紙が飾られた家。
などなど、各家庭の歴史とそれぞれに温かな温度が伝わってきてとても好きだ。
新盆の家にお経に行く際に、ご両親が健在だった頃と変わらずに飾ってあるその家ならではの精霊棚を見ると嬉しく温かな気持ちになる。
これらの飾り方は、ネット検索してもA Iに質問しても決して教えてくれない。
地域や家族の中で伝えられなければ、脆く儚く失われてしまう、地域と家庭の中に息づく、ユニークでかけがえの無い、人から人へ伝えられる代替不可能な尊い営みである。
シャカムニブッダは、”変わるもの”を”変わらないもの”として見て、”変わらないで欲しい”と思う心から「苦しみ」が生じると教えてくれている。
しかし僕は、そんな情景を、世の中のほとんど誰にも知られない、もしかしたら無くなってしまっても誰も困らない、その情景をいつまでも変わらず受け継いでいって欲しいと願わずにはいられないのである。
そして、来年のお盆へのカウントダウンはもうはじまっている。