戦争と仏教

戦争と仏教

SBCスペシャル「お寺と戦争と私」(信越放送制作)

「お寺のじかん」をご覧の皆さま、こんにちは。

浄土真宗本願寺派僧侶の海野紀恵です。

以前もこちらの記事に書かせていただきましたが、私はフリーアナウンサーとして活動しています。

先月、信越放送(長野県)のテレビ番組に出演させていただきました。

番組タイトルは「お寺と戦争と私」。

日本の戦争と仏教の関わりを紐解くドキュメンタリー番組です。

私はナビゲーターという立場で番組に関わらせていただきました。

番組の案内人として取材を進めるなかで、多くの学びがあったと同時に、「私はどのような僧侶でありたいのか」ということを考える機会にもなりました。とてもありがたい経験でした。

今回は、「お寺と戦争と私」という番組を通して私が感じたことや、この取材を経て気づくことができた私が目指す「僧侶像」を共有させてください。

仏教と戦争

この番組では、戦時下において仏教教団と国(政府)がどのような関係にあったか、また、仏教の思想を戦争とどのように結びつけていたのかを紐解いていきました。

戦争と仏教(お寺)との関わりで一般的によく知られているのは「梵鐘や仏具の供出」ではないでしょうか?

太平洋戦争中、戦況が厳しくなり資源が不足すると、お寺にある大きな鐘や仏具を提供するように求める「金属回収令」が出されました。

全国のお寺はこれに応え、梵鐘や仏具を国に提供したのです。

ちなみに・・・私が生まれ育ったお寺も梵鐘を供出していました。

今ある梵鐘は平成に入ってから新調したものです。

この梵鐘や仏具の供出のように目にみえる動きから、仏教のみ教えを戦時下の社会に合うように解釈し、門徒や信徒を戦地へ送り出したという心への働きかけも行われていました。

戦わなければ自分の国や命が脅かされる。殺さなければ、殺される。

そのような状況におかれたら誰もが平常心を失うでしょう。

そして、自分の死、敵の死、大切な人の死を覚悟して毎日を生きていくためには、精神的な支えが必要だったに違いありません。

仏教はこの「精神的支え」を担い、見えないかたちでも戦争に協力していったのでした。

「空気をよむ」ことの恐ろしさ

番組では広島県のお寺にもお邪魔して当時の僧侶の「法話ノート」をみせていただきました。

そこに並んでいたのは、国のために命を捧げることを讃える言葉たちでした。

仏さまのお言葉を伝えるのが法話ですが、それとはかけ離れた内容。

ノートを拝見すると、その法話をされていたお坊さんはとてもきちっとされていて、地域の方やご門徒さんととても丁寧に向き合っていらっしゃった方だと感じました。

きっと仏法とも真面目に向き合っていたはずです。

このお坊さんは、本当にノートにある言葉を心の底から正しいと信じていたのか・・・。

どこかに疑問を抱えながらお話しされていたのか・・・。

正解を知ることはできませんが、一つ感じたのは「空気」の恐ろしさです。

きっとこの時代に戦争に疑問を投げかけるような思想は許されなかったのだと思います。

どんなにおかしいと思っても、それを口にすることはできない。

そういう「空気」と「現実」があったのだと思います。

「空気を読む」というのは現代においても社会人の大切なスキルのひとつとされています。

自分の心はNOなのに、仕事を円滑に進めるために、周りの人とうまく付き合うために、YESと言わなければいけない。

「空気を読む」ことの全てを否定するわけではないですが、これに慣れ過ぎてしまうと、大きな波に飲み込まれ、気づいた時には取り返しがつかないことになっている、という危険性を感じました。

「後に生れんひとは先を訪(とぶら)へ」

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、自身のご著書のなかで「後に生れん人は先を訪へ」というお言葉を残されています。

「あとに生まれた人は、先人にたずねなさい」と呼びかけられているお言葉です。

私は、僧侶になったときからずっと「迷ったらお聖教(おしょうぎょう:浄土真宗が大切にしているお経や書物が収められた聖典)にききなさいよ。」と先生方から教えていただいています。

お聖教には、親鸞聖人のお言葉や、インド、中国の高僧たちの言葉が詰まっています。

言葉が古く専門的で、読解はとても難しいのですが、お聖教を読むと先人たちと会話をしているような感覚になります。

「先人にきく」という作業には時間が必要です。

「効率第一主義」の現代では、物事をじっくり考えたり、周りの人とゆっくり言葉を交わすということがしにくい状況だと思います。

きっと戦争中もそうだったのではないでしょうか。

殺すか、殺されるか。

敵か、味方か。

勝つか、負けるか。

常に二択を迫られ、瞬時に答えを出し、行動にうつす。

そのような世界をイメージしたとき、私は立ち止まる存在でありたいと思いました。

立ち止まって、先人にきく。お聖教に聞く。

この姿勢こそが、私が目指す僧侶の姿なのかな、と取材を終えた今、感じています。

そして、今を共に生きる人々とできるだけ言葉を交わし、「空気」や「大きな波」に飲み込まれないように、グッと立ち止まれる、堪えられる力をつけたいです。

そのためにも、聖典を読み、人と言葉を交わす機会を意識的に持たなくてはいけないと考えています。

今後、定期的な法話の会や対話の場をつくっていきたいと思います。