自意識過剰をこじらせ続けている – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.10 –

自意識過剰をこじらせ続けている – 横山瑞法の別に危なくない法話 vol.10 –

仏教でいうところの根本的な煩悩(苦しみの種)の中に、「慢(まん)」というものが挙げられています。

この「慢」というのは、自らを高くし他人を軽視する、自己中心的なおごり高ぶる心です。
慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の7つに分けられますが、これらそれぞれ他者に対して自らを誇ったり、他に対して自分を過大評価したり、徳も悟りも得ていないのに、自分に徳も悟りもあると思い込んだりすることを表しています。

余談ですが、「慢」と一緒に語られる煩悩に「憍(きょう)」というものがあります。「憍」は、他と比べることなく、自ら自己におごり高ぶることを示す。ナルシストみたいな感じでしょうかね。

さて、この「慢」ですがなぜ良くないのかというと、「他者と比較して勘違いしておごり高ぶる」ことが苦しみの元となり、悟りへの道を阻むものであるということなのですが、現代においては、この逆の方が心に苦しみを生じさせているのではないかと思うのです。

「他者と比較して勘違いして、必要以上に自分を低くみてしまうこと」

現代では、多くの人がS N Sをはじめとして、日々様々なメディアを通して多様な情報に接する中でこういう思いを抱き、悩み苦しんでいる方が多いのではないでしょうか。かくいう私自身も、思春期の頃からかれこれ四半世紀は自意識過剰な人生を過ごしており、例に漏れずそういうところがあると思います。

おごり高ぶることなんて滅相もなくて、いつもタイムラインに流れてくる誰かと自分を比べては「できない自分」に苛まれて、身動きが取れなくなっています。
見なけりゃいいんですが、それもわかってるんですが見てしまう。頭で理解すれば、やめられるのであれば誰も苦労しないわけで、「わかっちゃいるけどやめられない」ってやつです。

おごり・おごらず、卑下せず

如実に自分自身の現在地点を知見して、自分が置かれている状況で自分のやるべきことに対して自分自身がどう在るかということ。
自分自身には過ぎたデカい成果をあげた誰かと比べず、ただひたすらに目の前の自分自身の課題と向き合い続ける。

そのためには夢中になれるということが、大切だと最近思っています。
夢中になっていると、なりふり構わず周りに目もくれず取り組むことができるじゃないですか。子供の頃にレゴブロックに夢中になって時間を忘れて作ったり、砂場で大きな山と川を作ってた時。あのくらいに衣服も時間も気にせずに夢中になって取り組むことができれば良いと思っています。

しかし、大人には身の回りに夢中になるためのノイズが多過ぎます。だから、自分の意思だけで「夢中な状況」を作るのではなく、環境や状況をそちらへ向けて調整するのがいいのかなと思っています。
例えば、仲間づくりの視点から入るとか、生活のリズムを変えるとか、取り組むためのルール枠組みを作るとか、そういった外的なことからお膳立てを始めてみる。
仏教聖典は経・律・論の三蔵からなります。その一つである律は出家者達の生活に関わるルール・行動規範が示されています。これらを守ることで悟りへと向かいやすくなる、修行環境を整えることになるものになっています。内的変化を促すには、外的環境・状況も大切なのです。もはや有名な話ですが、やる気スイッチは無くて、やるとスイッチが入ってくるのです。やる状況に、やりやすい環境を作ることから。

と、勢いで書いてきたら、自分の中でもだいぶ整理がついてやる気が出てきました。
本来僕らには、他人と比べておごり高ぶったり、不要に自分を卑下する時間などないはずなんですよね。人生は短く、人の寿命は常ならぬものなのだから。