ChatGPTとは?仏教的観点からの受け止め方

ChatGPTとは?仏教的観点からの受け止め方

仏教の教えに触れる中で、私たちは常に心の在り方や物事の本質を探求しています。近年、技術の進化とともに、私たちの日常にも新しい「存在」が加わりました。その名は「ChatGPT」。では、ChatGPTとは一体何なのでしょうか。

ChatGPTは、OpenAIという組織が開発した会話型の人工知能プログラムです。例えば、私たちが「仏教の四諦とは何ですか?」と問いかけると、このプログラムは「苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つの教え…」と答えを返します。驚くべきことに、この答えは膨大な情報から即座に生成されるのです。

しかし、ここで一つ注意が必要です。ChatGPTが返す答えは、過去のデータや情報を元にしたものであり、感情や意識、独自の経験は持ち合わせていません。この点を理解することは、仏教的観点からの受け止め方、付き合い方を考える上で非常に重要です。

今回の記事では、このChatGPTという新しい「存在」について、仏教の教えを背景にどのように理解し、どのように付き合っていくべきかを考えていきたいと思います。


 

実は、上記の導入部分の文章は全てChatGPTが書いたものです。これ驚きですよね。以下は執筆担当本人(人間)が執筆しております。

誰でも無料でこのような機能を使うことができる現代ですが、ChatGPTが生成した文章にあったように、仏教的観点からどのように受け止め、どう付き合っていくのかを考えていきたいと思います。

 

ChatGPT(チャット ジー ピー ティー)とは

まずそもそもChatGPTとは一体なんなのでしょうか。

2022年11月にOpenAI(オープン エー アイ)社が公開したチャット型文章生成AIの「ChatGPT」。ユーザー数が公開からわずか5日で100万人、2ヶ月で1億人を突破し大きな話題となりました。またマイクロソフトがOpenAIに対し1.3兆円の投資を発表、2023年3月には最新版のChatGPT-4(有料)がリリースされその性能を格段に向上させました。

OpenAIが出したレポートによると、ChatGPT-3.5は統一司法試験受験者の下位10%程度のレベルですが、ChatGPT-4は上位10%(合格レベル)に匹敵します。

インターネット上では、「わずか月20ドル(約3,000円)で優秀な秘書を雇える」「これから使う人と使わない人とは大きな差を生むことになる」と、大きな話題となっています。

今月4日には、東京都内でソフトバンクグループの孫正義会長兼社長が東京都内で講演を行い、ChatGPTの未使用者に対して「もうやばい」「人生を悔い改めた方がいい」と持論を展開、そしてAIをさらに超えたより汎用性の高い「AGI」(Artificial General Intelligence(人工汎用知能))が10年以内にほぼ全ての分野で人間の叡智を超えてしまう(シンギュラリティに到達)であろうと予言をし大きなニュースとなりました。

ChatGPTが与える社会への影響はインターネット以来の革命であるとされ注目を集める中、グーグルも対抗し同じく対話型AIサービス「Bard」を3月に発表。今月には、アップルもAI「Ferret」を公開。さらには、OpenAIが来年に20〜25億ドル(約30兆〜37兆円)をかけて次世代バージョンのGPT-5の機械学習を開始する、との話もあるそうです。AI技術は急速に進化しており、関連ニュースが連日世間を騒がしています。

 

ChatGPTに出来ること

では、これほど話題となっているChatGPTですが、具体的に何ができるのでしょうか?
ChatGPTの特徴は、人間と話しているような自然な会話ができるところにあります。

テキストボックスに話しかけるように文字を入力すると、情報の提供だけではなく、悩みに対して適切なアドバイスをしてくれたり、さまざまな形の文章の作成が容易にできるのです。(私がこの記事で最初に載せた文がその例です)さらには、長い文章を指定の文字数に要約したり、他言語からの翻訳、ビジネスメールやプレゼン資料、企画書のテンプレートの作成、プログラミング言語の記述までも可能なのです。

しかしこの機能を引き出すには、こちらの質問の仕方が大きく影響します。つまり、使う側の質問力、テクニックが必要となってくるのです。漠然とした質問に対しては答えの内容は薄く一般的なもので、期待した回答を得ることは難しいのです。これを”Garbage In, Garbage Out”(ガベージ イン ガベージ アウト)(ゴミを入れたら、ゴミが出てくる)と言います。

これに対し、入力の際に「条件」「前提」「制限」「ルール」を細かく指示し、さらにAIに対して「役割」を与えることで、多くの有益な情報を手に入れる事ができます。これを「プロンプト」(「促す」の意)と言います。

これを駆使することで、私たちの生活を大きく変えてくれると期待されています。

 

少し遊んでみました。こんな感じで、詳しく指示を出すと、ChatGPTは期待した回答をくれます。

 

ChatGPTにできないこと

ChatGPTには課題もまだまだ多いようです。

まず、ChatGPTの仕組みを簡単に説明します。私はAIやプログラミングの専門家ではないので、仕組みについてChatGPTに聞いてみましょう。

 

 

つまり、大量のインターネット上のテキストデータをAIに覚えさせ、ユーザーからの質問に合わせて、「この単語が使われる時は次にこの単語がくるだろう」と単語の組み合わせを確立的に予測したものを文章として生成しているわけです。簡単に言うと「言葉の配列の予測」をしているだけなのです。(スマホで文章を入力していると、予測変換が出てきますよね。あれです)単語を5兆語も覚えさせたことで、人が話すような自然の文章の組み合わせが可能になったのがこのChatGPTなのです。

この仕組みからわかることは、過去にあるインターネット上のテキストデータを組み合わせたものが出力されているだけなので、ChatGPTが独自で思考し新しい考えや価値観を提示することはない、ということです。

また、インターネット上のテキスト情報を基本としているので、その情報自体が間違っていれば、質問に対する正確な回答を得ることができないことも注意しなくてはなりません。あくまでも言語の繋がりの予測なので、事実の正しさの判断や倫理的判断をすることもできないのです。

倫理判断ができないと言うのは、例えばインターネット上で差別を肯定するような意見が多数派であれば、ChatGPTも差別を肯定する回答を提示してしまうと言うことです。これがChatGPTの現在の限界でもあるようです。

ちなみに無料版で提供されているChatGPT-3.5が学習しているインターネット上の情報は、現在2022年1月までのものであり、最新の情報を得ることはできません。

 

 

ChatGPTが与える影響とは(期待と懸念)

人工知能における議論は様々な分野で行われいますが、私たちの身近なところではどのような事が言われているのでしょうか。

教育現場において

現在、教育現場においてChatGPTをめぐる議論が活発に行われています。

ChatGPTが簡単にしかも高水準な文章を生成してくれることで、学生の論文に使われるのではないかと懸念されているのです。

多くの大学で、学生のChatGPTなどの生成AIの使用を見据え、対応を表明しています。

各大学、生成AIについて、学生自身の学びを阻害してしまうとし、また情報の正確性、情報の漏洩の観点からも、レポート等に使用することを禁止するという動きが顕著です。

学生が ChatGPTを使用することで思考力が低下してしまうのではないかという懸念がある一方、日本の大学生へのある調査では、32%がChatGPTを使用した経験があると回答し、その多くが思考能力を高める効果があったと答えたそうです。

自分のアイディアや思考をChatGPTに投げかけて、自分とは違った視点のアドバイスをもらう、といった使い方をすれば、自分自身の新しいアイディアの発見や、より深くより広い思考につながる可能性がある一方、 論論文やレポートを AIに任せてしまい、ChatGPTが生成した文章をそのままコピーをして提出をするといった使い方をしてしまうのであれば、「自分自身で考えること」を放棄してしまうので、自己の向上には繋がりません。やはり使い方次第となってくるのではないでしょうか。

しかし、計算機が発明され、当たり前のように複雑な計算を人間自身がしなくなったように、人間はそれまで行ってきた営みを外部装置に任せてきました。インターネットが現れ検索によって情報を引き出す力さえあれば、記憶もする必要がありません。現代AIが現れ人間は思考すらもする必要がなくなったのかもしれません。当然人間が自己の能力を使わなければ記憶力も思考力も衰えていくでしょう。しかし、インターネットやAIを使えないのであれば社会に取り残されてしまうという心配がないわけではありません。私たちはこれを進化と捉えるべきか退化と捉えるべきなのでしょうか。

これからの時代を生きる学生がAIをどう扱うのか、良い悪いで単純に決めてしまうのではなく、様々な角度での議論が必要になってくると思います。

 

 

仕事がAIに奪われる?

またChatGPTや人工知能を考える上でよく議論されているトピックの一つが「職業」についてです。

人間がこれまで時間をかけてこなしてきた業務が自動化し、圧倒的な処理能力で対応されていくため時間を短縮することが可能となります。一方、人間が担ってきた職業を奪ってしまうのではないかとの懸念もあります。

今後様々な職種がAIに代替されていくと考えられます。労働人口の49%の仕事がAIに変わるとの予測もあります。しかし当然全てのものがAIに代替されるわけではなく、「人間にしかできないこと」もあります。今後より「人間にしかできないこと」が意識されていくでしょう。

現在すでに、「HOTOKE AI」と言う ChatGPTの技術をベースにした、AIにチャット型で相談する、というサービスが存在しています。

また、京都大学の「人と社会の未来研究院」と「株式会社テラバース」の共同開発でChatGPT-4を応用し仏教教典を学習させた「ブッダボットプラス」や浄土真宗の開祖親鸞上人の教えに特化した「親鸞ボット」、唯識を大成させた世親菩薩の「世親ボット」など、テキストのみではなく視覚、聴覚も用いたコミュニケーションが取れるAIも開発されたそうです。

「僧侶」という存在は「人間にしかできないこと」なのか、それともいつしかAIにとって変わられる日が来てしまうのでしょうか。

 

 

仏教徒としてどう受け止めたら良いのか

科学の発展により私たちの暮らしを豊かにし科学技術に依存する度合いも日に日に高くなりました。もう科学技術なしでは社会そのものが回らないレベルと言っても誰も異論はないでしょう。

科学が私たちの社会にどのような影響を与えるのかは、専門家ですら予想がつかないほどのスピードで今この瞬間にも発展をし続けています。

AI以前に時間を巻き戻すことも、その進化を止めることすらも不可能と言えます。

そんな時代を生きる私たちは、仏教徒としてAIや科学技術をどのように受け止めるべきなのでしょうか。

 

身体性

仏教にとってまず大切なのは身体性です。お釈迦様は無我・無常の教えを説きながらも、この現実世界を生き抜きました。私たちが生きている空間は最終的にはデジタル空間ではなく、このアナログ空間です。

そしてお釈迦様の教えは決して文字の羅列ではなく、この身体を持つ私がどのように感じ、何をして、どのように生きるかを説いてくれているものです。

私がこの世界を生きる上で、お釈迦様の教えをどのように感じどのように腑に落とすかは、決してAIが代わりにやってくれるものではありません。

やはり、頭の中の思考だけでは、お釈迦様の説いた悟り(気づき)からは程遠いものであり、この身体をもって体得するものなのではないでしょうか。

 

観点の切り替え

私たちがこの世界を生きる上で向かい合わなければならないものが、苦しみです。

この苦しみは、自分(我)を中心とした世界の認識からくるものです。私の世界観、価値観というものは、私がこれまでしてきたことの経験や、成り立っています。自分にとって都合の良い世界観にすぎません。しかしそれは「世界そのもの」とは程遠いものであり、当然のように自分にとって都合の悪いこと想定しないことが日常のように起こります。その自分の認識と世界そのもののズレが苦しみを生みます。

私たちが瞑想や修行、仏教の教えを日常の生活に落とし込んでいく中で、自己を中心とした世界観から離れ自分自身が作り上げてきた価値観のみに捉われるのではなく、より大きい視点に立つことが苦しみからの解放となります。

その観点を切り替えるのは、AIではなく、自分自身なのです。AIがいくら色々な情報をくれたとしても私自身が一つの物事の見方に捉われていたら、苦しみから逃れることはできません。

物事を多角的に見ることができるようになれば「AI」そのものに対しても、「害悪だ!」と切り捨ててしまうだけではなく、受け入れてることが出来るのかもしれません。

 

過度な依存

今、AIという存在は、誰でも簡単手の届く場所にあるものとなりました。

スマホがそうであるように、いずれ私たちの日常生活に必要不可欠なものになっていくのかもしれません。

しかし「これなしには生きていけない」という過度な依存状態になってしまうことは仏教の教える「中道」からはかけ離れてしまうのではないでしょうか。何事にも程よくバランスをとることが大切です。

科学技術が身の回りにあふれAI社会に突入している現代、意識的にバランスを調整していくことが心の安定につながっていくのではないでしょうか。

 

 

私たち人間という存在はいつの日からか、その生き死にを繰り返してきました。

そんな中、2500年前にお釈迦様は、人間がどのように「死」を受け止めるべきかを私達に説き、どのように「生」に向かうべきかを教えてくださいました。

時代が変わっても私たちの死生観は大きく変わることなく、お釈迦様が説いた教えは今なお私たちの生き方の拠り所となり続けてきました。

しかし科学は医療を発展させ、人々は「病む」ことや「老いる」ことへの向き合い方が徐々に変わりつつあるようにも感じます。

今後さらに科学が発展し、脳の機能が完全に解析され、チップを埋め込み、記憶をバックアップし・・・なんて時代になれば、「死」というものに対する価値観も変わってくるかもしれません。

この時代に生きる私たちだからこそ、このことを真摯に受け止めて、今一度お釈迦様の仏教の教えに立ち戻り問い直してみる必要もあるのかもしれません。