いただきますを言ってはいけない、ってマ、マジですか…!?【日本の仰天マナーと仏教】
え、イマドキは、会食の場で「いただきます」を言うのが「マナー違反」なんすか!?どひゃー!!!
・・・すみません、取り乱してしまいました。
こんにちは、お寺の息子で「建物なき寺院 SOCIALTEMPLE」の嶋田と申します。
お寺の息子として、オンライン仏教・お寺メディア「お寺のじかん」で仏教・お寺に関する「ちょっぴりほかの方とは趣向の違う」記事を書いてます。
あるときは舞台表現活動で見つけた仏教のことを語ったり…
あるときは、「ニコニコ超会議」に潜入したり…
そんな、トレンドなのかトレンドじゃないのか、また仏教の話なのかはたまた違うのか、関心の赴くままに書いています。
「いただきます」って言ってはならぬ!?
そんな中・・・どっひゃー!!!なものをお見掛けしました。
「「【いただきます】なんて家で言え!人と一緒にいる時は【頂戴いたします】て言うねん!」」
…だそうです。(※この記事のタイトルと若干表記が違いますが、正確を期して発言そのまま記載しています)
とまあ、お寺息子でなくても超々びっくりなことが、「マナー」としてテレビの公共の電波に乗って発信されていました(あくまでバラエティ番組で、ですが)。
SNS上でも結構話題になってました。
X(旧Twitter)上のトレンド検索(外部リンクへ移動)は一度見てみてほしいくらい、「え、ナニコレ!?」にあふれてます。
「いただきます」って言いますか?
この記事をお読みのあなたは、ご飯を召し上がる際に「いただきます」と言いますか?
偶然この記事を書くときに見つけましたが、飲食店のポータルサイト「ぐるなび」運営の会社さんが、こんなアンケートをされてました。
飲食店情報検索サイト「ぐるなび(http://www.gnavi.co.jp/)」を運営する株式会社ぐるなび(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:久保征一郎 以下、ぐるなび)は、ぐるなび会員を対象に、食事の時に「いただきます」と声に出して言う人はどれくらいいるのか調査を行い、「ぐるなび」のグルメ情報コンテンツ「みんなのごはん(http://r.gnavi.co.jp/g-interview/)」で調査結果を公開しました。
このアンケート調査、少々古い(2014年)ですが、この時点での数値を以下のように公表しています。
20歳~69歳の男女1,200人に調査したところ、 朝・昼・夕の毎食時に「いただきます」と声に 出して言う人は35%という結果になりました。(「みんなのごはん(ぐるなび)調べ」(外部リンクへ移動))
…ってあれ?意外と少ない…
さらに詳しく見ると、
家族と食事をする時に「いただきます」と言う人は60%以上
「いただきます」を言うシチュエーション別に見ると、最多は「自宅で家族と食事をする時」で、60%以上を占めました。これに対して、家族以外の相手と食事をする時に「いただきます」を言う 人は40%以下となり、20ポイント以上少なくなりました。飲食店での食事でも「家族といる時」が32%と最多となり、家族と一緒に食事をしているかどうかが「いただきます」を言うかどうかに影 響を与えていると言えそうです。「一人の時」も25%の人が「いただきます」と言っており、「言わない」の23%を上回りました。(「みんなのごはん(ぐるなび)調べ」(外部リンクへ移動))
…そうなの?!
ということで、「いただきます」をいうかどうかは、「身近な人が見ているかどうか」なんていう要素が高そうだ、という結果になったようです。
あれ、このマナーの話が登場した2024年より10年前から「家で言え」は通用していた…?のかもしれません。
「いただきます」ってどう思って言うものですか?
では、もしあなたが「言いますよ!」のでしたら、「いただきます」っていうとき、「どう思って言っていますか」?
自分はお寺の息子だから、というのは取っ払って言いますが、「(何かの命を)いただきます」という思いで「いただきます」を食べる前に必ず言います(まれに言い忘れてて、あとから箸をおいて「いただきます」と言い直すことさえあります笑)。
「「【いただきます】なんて家で言え!人と一緒にいる時は【頂戴いたします】て言うねん!」」
なんて片腹痛いものです。笑
だって、自分が食べるために「命(食材)をいただく」「作っていただいた方の労役をいただく」などなど、たくさんのものをいただいているのだから「いただきます」なのに、ねえ。
仏教的「いただきます」の(あくまで嶋田の)解釈
感想を言っててもしょうがないので、しっかり「仏教的視点」で小話を。
仏教の教えに「縁起」があります。
すべてのものには、必ずそれを生んだ因と縁とがあり、それを因縁生起(いんねんしょうき)=縁起というのです。
(中略)
『阿含経あごんきょう』に「これある故ゆえにかれあり、これ起こる故ゆえにかれ起こる、これ無き故ゆえにかれ無く、これ滅する故ゆえにかれ滅す」とあります。
(中略)
本来は、他の多くのものの力、恵み、お蔭かげを受けて、私たちは生かされているという、仏教の基本的な教えなのです。
(引用元:浄土真宗本願寺派 仏教語豆事典「縁起」の項目より、強調筆者)
私たちがいただく食べ物は、すべからく何かの命をいただいています。
近年は人工肉のような人工物も出てきていますが、「人の手がかかっている」点で、作った人の命(この場合は時間など)をいただいていると考えます。
「いただきます」は、その「他のものの力をいただいている」ということを意識させられます。
「生かしていただいている」という感謝の気持ちがあることは、素敵だと思いませんでしょうか。
…ちょっと待て。
若干いい話で終わらせようとしていますが、これでは、最初の「「【いただきます】なんて家で言え!人と一緒にいる時は【頂戴いたします】て言うねん!」」がなぜおかしいか、が明かされていませんね?
ベクトルは違っても、「いただきます」に変わりはなくないっすか?
先ほどの「マナー」の視点で議論すべきことは、「いただきます、と言うとその場でその言葉を聞いた人が(不愉快、気色悪いなどをまとめて)不快になるか」だと思います。
…まあ結論はすでに出ている気もするのですが。
マナーの話なので、例えば目上の人がいる場所での、フォーマルな会食の場面を仮定しましょう。
そのとき、食べ物に対して「いただきます」と言った人がいたとします。
もしその人に対して、目上の人が「ばかもの!いただきますなんて失礼な!頂戴しますというべきだ!」と叱ったとします。
その時点で、「会食の場を作っている人(=作った人の命、作った人の力)に対して失礼だ」と思いませんか?
だって、会食ということは「レストランで料理を作る人がいる」わけですよね。料理人がいなくても「料理を持ってくるウェイター」がいるはず。
その人の仕事によって持ってこられたものに対して「いただきますをいうべきでない」ということは、命を使って仕事をした人に対する冒とくだと思います。
「頂戴します」と言うのならばOK、とかじゃなくって、「いただきますなんて言うな」の時点でアウトです。
どんな人・ものにも、リスペクトと感謝の気持ちをもって接していることで、社会は滑らかに回っていく。
そのための「マナー」だと思うのですが、リスペクトも感謝もない「マナー」って、何でしょうね?
とりあえず私にはわかりませんでした。教えて、識者さん!
お寺のじかん運営「建物なき寺院」SOCIALTEMPLEとは

SOCIALTEMPLEの事業「寺GO飯」開催の様子。料理をしっかりいただけるよう、料理人にお願いして、食事を参加者みんなで「いただきます!」の一言を添えて、いただいています。
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