デスエデュケーション〜後編〜
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デスエデュケーション〜前編〜
その後、入院し経過観察をすることとなった。
これ以上の治療は体力面、精神面を考慮し中止しますと医師より話があった。
治療しないということはこれ以上よくなることはないということ。
いよいよか。と最悪の結末を想像しはじめた。
当時はコロナ禍真只中。面会規制があり入院からはじめて面会できたのが入院から1ヶ月後のことだった。
もともと細かった体はさらに痩せ細り体調の悪さをひと目で理解することができた。
面会から数日後、医師から病院に来てくれと連絡があり駆けつけた。
余命宣告と延命治療についての説明だった。
治療中止の時に想像していたことが現実的になり、いよいよかと覚悟を決めた。
しかしたくさん会いに行ってあげたくても面会制限の壁が立ちはだかり会いたくても会えない状態が続いた。
そんな時病院から電話があり危険な状態なので近しい家族を全員呼んでいいので来てくださいと言われ、県内の親戚も県外の親戚も呼びみんな病院に駆けつけてくれた。
みんな口に出さずともいよいよその時がきたと思っていたと思う。
大人数が病室に集まり、父を見つめていた。
そして父は息を引き取、、、、、、、、、、、、、、、、、、りはしなかったのだ。
意識を取り戻し少し話ができるまでに回復したのだ。
医師も驚きの回復だったようだ。
しかし予断を許さない状態は変わりないので特別に面会規制が解除されいつでも面会が許され、病室に泊まることも許可された。
そこから2ヶ月の間に病院から連絡→親戚全員呼ぶ→回復するを3回繰り返したのだ。
そして4度目の病院からの連絡。
その時は県外で仕事をしていてすぐに駆けつけることができなかったが、3回回復したから次も回復するだろう、回復してくれと祈っていた。
しかしその願いは届かずに息を引き取った。
享年60歳。あまりにも早い別れだった。
人はなんとなく平均で物事を考えてしまう。親も80歳くらいまでは生きるのだろう。
例に漏れず自分もそう考えていたが人生そんなに平均通りにはいかないものだ。
それから葬儀の準備に追われ、あっという間に時間が過ぎ通夜、葬儀を迎えた。
数え切れないほど多くの方が弔問に来てくれた。
コロナ禍のため家族以外は本堂内の入堂を遠慮していただいたにもかかわらず最後まで外でお経を上げてくれていた方、県外から来て下さった方、子供のようにワンワン泣きながら父のことを話してくれた方、いろんな方に慕われていたんだなと感じた。
人の一生は葬儀に現れるとは言うがまさにその言葉を肌で感じた瞬間だった。
無事に葬儀も終わったがここからが大変だ。
モノを捨てれない父だったので家中に溢れ返っていたモノの片付けや整理、市役所や銀行などの手続き、住職交代の手続き。
全て終わったのは今年の秋。亡くなってから丸3年が経ってからだ。
あわだだしい日々が続いたが寂しさを紛らわすにはちょうど良かったのかもしれない。
一連の残務処理に加え、四十九日忌、一周忌、三回忌の法要。
これらのおかげで改めて父と向き合えたように思う。
モノを通して昔のことを思い出し、毎年の供養を通して感謝の心を養い、あんなことがあったな、こんなことがあったなと思い出しながら再認識し追体験をしていく。
振り返るとこの体験のおかげで上手に悲しみの処理ができたように思う。
親の最後の仕事は人は死ぬと教えることだという。
日常を過ごしているといずれ死が訪れることはわかってはいてもどこか他人事で非日常だ。
だが親の死を通して人生の儚さを学び、思い出の価値を再認識し、過去への感謝を深め、人生における重要な教訓と成長の機会を与えてくれたように思う。
いのちを通して多くのことを学ばせてもらった。
デスエデュケーション。
「死」から「生」をみることが人々がより充実した生を送るための基盤なのかもしれない。