Vol.10|「お寺の音」が担ってきた役割とは
2023年の夏に始まったこの連載「お寺さんの音景色」も、今回で10回目を迎えます。(ほぼ)隔月のペースで、各地のお寺さんに広がる「音景色」にまつわるエピソードをお届けしてきました。
様々なお寺にある「音」、「景色」、そしてその組み合わせから成る「音景色」に着目し続けてきましたが、こうしてまとめたものを読み返してみると、そこには過去からずっと続いてきたと思われる「お寺の機能性」が浮かび上がってくるように感じました。
今回は10回の節目ということで、過去の「音景色」をふりかえることでわかってきた「お寺の機能性」を紐解いてみようと思います。
仏具が担ってきた役割
『Vol.1|富山県 高岡市 シマタニ昇龍工房で「おりん」の深き音景色に沈む』では、3人のお坊さんと一緒に「おりん」の工房を訪ねました。
シマタニ昇龍工房は、明治42年(1909年)創業。江戸時代より鍛金(たんきん)という手法でおりんを作ってきた本家を引き継ぎ、現在は4代目の島谷好徳さんが職人さんたちと共に工房を守られています。おりんといえば、お寺の本堂や、家庭の仏壇で 音景色 をつくりだす仏具。打ち鳴らすことで、日常を非日常的な仏の世界に誘う機能がありそうです。
一子相伝の職人技が必要とされる音づくりの要となる「調音(ちょうおん)」という行程についてお聞きする中で、島谷さんの「朝は耳が一番良い状態なんです」という発言にお坊さんたちが深く頷いておられたことが印象的。島谷さんは毎朝、自宅の仏壇にある一番良い音の6寸のおりんを鳴らして耳のキーをあわせてから仕事を始められるそう。その音は島谷さんが小さい時からずっと、朝に晩に聞いている音なのです。
すると「かわらないこと」を保つ役割として、おりんなどの仏具が活躍してきたのだと思えてきます。そのために職人さんたちが技術を引き継ぎ、お寺の本堂の 音景色 の一貫性を守ってきたわけです。朝のおつとめは、お坊さんたちの耳をチューニングする機能も担っていそうです。お参りする私たちも、おりんの「あの音」を聞くとなぜだか安心します。仏具がつくられてきたその壮大なる歴史に想い馳せてしまいますね。
幽玄なる水の音・静けさの世界
チューニングといえば、『Vol.7|京都府亀岡市 真福寺の水琴窟の音に涼む』では、お寺の境内にある水琴窟(すいきんくつ)の音を聞きに行きました。水琴窟とは、素焼きの甕などを地中に埋めて空間をつくり、その空間に滴り落ちる雫の音を反響させる仕掛けのこと。とても涼しげな水の音が聞こえます。
京都府亀岡市にある真福寺さんでは境内の観音様の像の下に水琴窟をつくり、手を合わせればあたかも観音様の声が聞こえてくるようなつくりとなっています。水琴窟の音は、観音様の声だという設定なのですね。「この世のものではない音」を感じてもらうために、ランダムな水の音の幽玄な響きが活かされているというわけです。
現在の住職である満林晃典(みつばやし こうてん)さんは、水琴窟に耳を向けて「聞こえるか・聞こえないか」ではなく、できれば周りの音と一緒に水琴窟の音を聞いてもらいたいとおっしゃっていました。ラジオのチューニングを合わせるように、手を合わせて心落ち着けて自然の音に自分の波長を合わせていくと、なんとなく突然その音が聞こえるようになる。水琴窟の音に波長を合わせることで、意識されていなかった他の音にも気づくような広がりがあり、新しい世界に気づく楽しみがある。
坐禅をしに来られたかたが、本堂で坐禅を終えた後に観音様に手をあわせた時に、「あれ、なんか綺麗な音がなってますね」と気づかれることがよくあるそう。坐禅という「静」の世界を通過することで、感じやすくなる。そんなこともあるのかもしれません。
「静けさ」があることも、お寺の音景色の大きな特徴と言えそうです。
めざめの音
「静けさ」の音景色といえば『Vol.4|今治市・大下島 法珠寺より港に出て、島のめざめの音に立ち会う』にて、瀬戸内海に浮かぶ離島・大下島(おおげしま)にある、法珠寺(ほうしゅうじ)を訪ねたことを思い出します。
住職の加藤正さんに、周囲での印象的な音を聞くと「船の音」という答えがありました。小さな島ですからお寺にまで船の音が届くのです。そこで、朝一の船の音を録るために、まだ暗い港へ出ました。
早朝時間というのは、鳥も鳴いておらず、微かに波打ち際のチャプチャプという音がある程度の無音の世界。よーく目を凝らすと、数名の釣り人が糸を垂れていましたが、その人たちもじっと息を潜めている雰囲気です。
そんな中、徐々に波の音が大きくなり、沖の方から船が近づいてくると、島にその響きが伝わるような感覚がありました。鳥や獣が動き出すと周囲の音が増えていきます。波の音もかなり激しくなる。それら自然音に拮抗するように人工的な船の音が侵入してきて、まるで島を目覚めさせているかのようなインパクトなのです。
微細な音を拾うマイクとヘッドフォンを通して、この音の変化を感じることができたのは、良い体験になりました。
明るくなってからお寺に戻ると、お母様がご用意してくださったあたたかい朝食がありがたく、本堂での朝のお勤めでの賑やかな鳥の鳴き声などから感ぜられる「南国感」が、静けさの世界と対照的な味わい。朝のお勤めは「一日の始まり」なのだとしみじみ感じました。
冬の本堂を暖める音と人の声
もう一つの「静けさ」の音景色として印象的なものは、雪国の本堂を暖めるストーブの音です。『Vol.9|北陸の地でお寺の歴史と今、そして未来に思い巡らせる』では、大きな伽藍を持つ正覚寺にてストーブを囲んで暖をとったことが心に残っています。天井高く面積も広いため堂内全体を暖めることができません。そのせいか、自然とストーブの周りに人が集まり、会話が生まれます。
ストーブの「ゴオオオオオー」という音は「暖めるぞ!」という前に出てくるような勢いを感じるのですが、それも堂内で青年僧たちによるお経が始まった途端に背景の音となりました。法要の響き。複数人の肉声の重なり合いが、堂内の音景色を一変させるのです。
勉強会が始まる前の談笑のひとときが、いざ学ぼうというムードに切り替わる瞬間でした。音景色の変化は、場の空気を引き締める効果もありそうです。
「忘れない」「思い出す」ための法要
雪国での録音となったのは、『Vol.5|青森県五所川原市 法永寺 3月11日「つむぐ日」の祈りの声、お空へ響け』の取材で訪れた、法永寺も心に残っています。
「東日本大震災追悼」の場ということで、どのような音景色になるか、ぜひ収めておきたいと思ったのです。ここで印象的だったのは「人の声」です。地元FM局のキャスター・澤田理紗さんによる朗読は、感情を込めずに読むことで、より一層胸に迫ってくるものがありました。
続く法要パートでは力強い日蓮宗のお経に、願いの力を感じずにはいられません。これも「声」により、亡き方への「悼む思い」をあらわしているようでした。
住職の小山田和正さんはこの法要を「(3.11のことを)忘れないためにやっている」と仰っていました。忘れずにいるためにあらわれる音景色。それも法要の役割。
一方で、参列者の中には法永寺の日常的なお経の会に来られている方もいて、会話の声に耳を澄ましてみると、お経の会が身近な人を亡くされた方にとって「力をもらう場」「心やすまる場」であることがわかりました。その声に混じる「安心感」に、法永寺が提供している場の尊さを思います。
「悼む思い」をあらわす
その死を忘れないために、みんなで<パブリックに>勤める法要もあれば、より<パーソナルに>一人では抱えきれない気持ちに寄り添ってくれる法要もありました。『Vol.6|愛知県名古屋市 瑞因寺 なんでもない日の午後のおつとめ』です。
この日はたまたまの用事で名古屋の瑞因寺の飯田正範住職を訪ねた、なんでもない日でした。しかしたまたま、とあるお坊さんの身内の方が亡くなられたという訃報が届き、私が動揺している様子を見て、一緒にお勤めしましょうと提案してくださったのです。
私も声を出して、お寺の本堂の音景色の一部になりました。どうしようもなく残念な思いは決してなくなることはないにせよ、一人ではとても抱えきれない思いを、誰かと一緒に音としてあらわす。そのことが、多くの人たちの助けになっているということがよくわかりました。
毎日、全国各地のお寺では、このように、お経があげられ、鐘が鳴らされ、亡き方への思い。離れた人への思い。そして、平和への願いを音として、あらわしているのだな。そんな当たり前のことが、あらためて心に迫ってきました。
時をこえて、場をつなぐ
非日常の音景色を浮かび上がらせる「お祭り」や「音楽会」も、3つのケースをご案内しました。
『Vol.2|埼玉県秩父郡・般若山 法性寺で300年前の音景色に想い馳せる』では、秩父にある法性寺において313年ぶりだという山門の建替えを記念して、山門解体後の珍しい景色の中でギタリストの演奏やお経とのコラボレーションがありました。
周囲を山林に囲まれているためセミの大合唱が忘れられません。演奏が始まった直後は呼応するように盛り上がっていた蝉たちの声が、徐々に弱まり演奏の美しさが際立っていきました。蝉の配慮なのか、はたまた私たち人間の脳がセミの通奏音に慣れたのか、定かではありませんがとても特殊な音場であったことは確かです。
取材時、ご住職の荒谷 哲巨(あらたに てっきょ)さんに「山門がなくなって、山内の音の響きは何か変わりましたか?」という質問をしてみました。すると、流石にそこまで大きな変化は感じられないそうですが、そもそも法性寺周辺は谷になっていて音を集めやすい場所かもしれないということでした。荒谷さんが少し上の方にある観音堂でお経をあげている声が、500-600m先のお寺でも聞こえるそうなのです。遥か昔にその場所にお寺が建築されたことと、何か因果関係がありそうな話です。
現在は山門が再建されたようですが、音の響き方もまた変わっているのでしょうか。ぜひ確かめに行ってみたい今日この頃です。
『Vol.3|京都市・永観堂 放生池での池上法要にお浄土の音をきく』は「宗祖法然上人立教開宗850年記念」として、2023年に浄土宗西山禅林寺派で企画された限定夜間拝観「Pure Land Lights」を取材しました。イベントのコンセプトは、光と音で「永観堂を浄土にする」ことでした。永観堂の山内の美しさを際立たせるプロジェクションマッピングが施され、私が行った日には境内の放生池にて特別法要「光の池上法要」が行われました。
この法要も、現代のアーティストが制作したアンビエントサウンドとの共演でしたが、お経はマイクを通さずに生声で届けるというこだわりがありました。共演したアーティストさんの「(お経は)マイクを通すと失われる何かがある」とのご意見からだそうですが、確かにそのおかげかお経の声が拝観にこられている小さなお子さんやみなさんの喋り声の中に溶け込んで、場の一体感が生まれていたように思います。
そんなことも「お寺の音景色」にまつわる一つの発見と言えましょう。
『Vol.8|神奈川県川崎市 高願寺にて、月夜に虫たちとうたう』では、川崎市にある高願寺にて毎年行われている「高願寺十三夜(十五夜)音楽会」を取材しました。十三夜または十五夜に近い土曜日の月夜、各国の民族楽器の奏者をお寺にお招きして、演奏していただいるというもの。2024年は、琴・歌・ピアノのトリオが出演しました。
秋の夜風の涼しさや、虫の声、お客さんたちがひそひそと話す柔らかい声。全てが気持ちの良い音の場となっていました。古い建物を移築してきたという「幽篁堂(ゆうこうどう)」の木造建築のあたたかみは、耳にも目にも優しくうつります。
“お寺にゆかりのある曲” として演奏された「山越えの阿弥陀」という楽曲にて、演奏を聴きながら前述の「Pure Land Lights」を思い出しました。イベントの中で山の上に阿弥陀様のお姿が投影される瞬間があったからです。『山越阿弥陀図』は、鎌倉時代から禅林寺に伝わる来迎図なのです。
私の記憶にある景色と、その時に演奏された楽曲が重なりました。仏教では、仏様の教えを説いたり、その味わいを伝えるために、さまざまなモチーフを用いることがあります。現代に至ってもなお、音楽や絵図などを通してイメージを結ぶ役割を果たしていることを尊く実感しました。
「お寺の音」の役割とは
以上、全9回分の「お寺さんの音景色」を振り返ってみました。この連載を通じて私が感じた「お寺の音」の役割とは、
- 日常を非日常に切り替える
- 日常を取り戻す契機となる
- 「変わらない」を保つ
- 「忘れない」ように思い出させてくれる
- 「この世のものではない存在」に思いはせるきっかけとして
- 「静けさの世界」で、体の機能をチューニングする
- 「悼む思い」をあらわす(ひとりでも、誰かと一緒でも)
- 生きる元気をくれる
- 心をやすめてくれる
- 「仏の世界」を想起させる様々なモチーフをつないでくれる
こんなところでしょうか。皆さんも他に気づいたことがあればぜひ教えてほしいです。
「お寺さんの音景色」の探究はこれからも個人的に続けていきますが、連載としては今回を一区切りとさせていただき、次のステップに進んでいきたいと思います。
次回からは、もう少しテーマを大きくとって「お寺文化」を関した連載にしようと考えています。次回の更新を楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。